【題未定】一律適用の危険性:「探究的学び」と教科特性の矛盾【エッセイ】
現在、学校文化において大流行中なのが「探究的な学び」という言葉である。どの研修へ出かけても、どの教科書会社の社員と話をしても、その言葉が出ないことはない。
こうした教育や学校でスローガン的に掲げられた言葉を教科単位に落とし込んでいくのが教科書会社や現場教員の仕事である。文科省の言う「探究」とは問いに対して仮説を立て、検証するという行為を指すようであるから、それを教科ごとに具体的な授業として実践をすることになる。
では具体的に数学における「探究的な学び」とはどのような学習を指すのだろうか。インターネット上には算数や数学の授業における探究的な授業の例が簡単に検索できる。小中学生向けのものであれば角度など平面図形的な問題が、高校生向けのものであれば整数論などのものが多数見つかる。双子素数やメルセンヌ素数、場合によってはゴールドバッハ予想を触るものまであるようだ。
こうした事例を見た正直な感想は、「探究」のための「探究活動」に終始しているというものだ。なぜならばこれらのほとんどは結果が分かっているか、あるいは最先端の数学者でも証明できていないものであり、「探究」を通して新たに世界が広がったり、知られていないものが明るみになるようなことは一切ないからだ。テキストを読めばその次のページに詳細な証明が書かれているようなものを「探究」する意味があるか甚だ疑問ではある。
数学においてある事象が成り立つときに、それを証明することは非常に重要視される。一方でそれがどうして成り立つか、もっと言えばどうしてそこに気づいたか、ということに関してはあまり評価をしない。実際、ほぼすべての数学の専門書はその証明に関しては詳細に記載されていても、その気づきの部分に関しては深く議論をしていない。それは高度な学びを継続しているうちに自然と気づく矛盾や課題であり、初学者が不意に思いつくような発想のような類のものではないからだ。したがって全国民が一律に学ぶカリキュラムにおいてこうした「探究」的な学習がどこまで効果があるだろうか。
また数学者の証明できていないものを高校生が数学の探究課題として設定することの分不相応さも気にかかる。なぜならばそれを証明するためには彼らが知らないいくつもの分野の知識や思考方法を学ぶ必要がある。少なくともその前段階で証明可能ならば先人が既に終えているはずだろう。今なお証明できていないというのであればその先の学習が事前準備として最低限必要である。それらの修得だけでも何十冊もの専門書を読破し、理解しなければそのスタート地点にすら立てないのに、高校生が現有知識で未解決問題を考察するというのは、数学という学問に対してあまりにも不遜な態度である。
仮にこうした「探究」的学習を数学に求めるのならば、個人的には「解析概論」など名著の通読や読み合わせをゼミ形式で行うことぐらいしか思い浮かばない。これは大学数学の予習となるだけでなく、いわゆる数学的な定義定理証明の流れを体得する上でも効果的だろう。ただこれとて高校数学を一通り終えた後以降にしか実施は難しいため、現実的には時間の確保がかなり困難であろう。
正直なところ、数学という学問と「探究」的な学習との相性は極めて悪いように感じる。一方でこの感想は「探究」活動そのものを全否定するものではない。特に「協働的」学習と絡ませると数学との相性の悪さが際立つ。数学の学び、特に深く高いレベルにおいては一人で孤独に考えぬく力が求められる。この能力と現代の「探究」型の学習は明らかに方向性を異にするものだろう。
ところが例えば生物などはこうした「探究」が新しい種の発見に繋がったり、これまで脚光を浴びていなかった生物の性質などの周知に繋がる例もあるという。また公民などもその傾向が強いようだ。30万年前の新種のセンチコガネ化石やヤハタヒメヨコバイの発見などはその良い例であろう。つまり実生活との関連性の強い教科ほど、活用がしやすくまた教育効果も期待できるという可能性は高い。事実これらの担当教員と話すと、「探究」的な学習が授業に上手く取り入れており、生徒の学力向上に効果があるという声を聴くからだ。
要は教科、科目特性に応じた対応をすべきところを、教科をまたいで一律に実施するために無理が生じるのではないだろうか。文科省、および担当者に対してはしっかりと現場や教科特性を考慮した上での教育行政にあたることを強く願うばかりである。