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「自分語り」教員の寂しさ
学校の教員をしていると、ホームルーム中や授業の合間に雑談を挟むことがあります。
内容的には、進路選択や学習、時間管理の方法などです。
特に、過去の卒業生の経験や失敗談などを客観的に遡って話すことができるのは私立の強みでもあります。
同じ環境で得た先人の知見ですから、ある程度は興味を持って聞いてくれるケースが多いようです。
教員は「自分語り」を話しがち
こうした時に話しがちなのが「自分語り」です。
過去の自分の成功談や失敗談を上手く交えて話すことができれば、内容的に充実した講話になるのかもしれません。
しかし、実際にはその話が響いているかというと疑問符が付きます。
無記名のアンケートや感想欄にはかなり辛辣な意見が書かれているからです。
では、なぜ「自分語り」は受け入れられがたいのでしょうか。
以下の3点が理由として考えられるのではないでしょうか。
教員個人に興味がない
時代背景があまりにも異なる
そもそもそれほど話が上手くない
1.教員個人に興味がない
誰の「自分語り」ならば人は聞きたいと思うのでしょうか。
おそらくは、芸能人や文筆家、政治家などその才能や存在に社会的影響力が高く、稀有な存在の人ほど聞きたいと思うでしょう。
そうした人は市井の人たちとは異なる経験をしている可能性が高く、話の内容も時間を割いて聞くに値することが多いでしょう。
そもそも、その人の人となりを知りたいと思っている人が聞きに来るため、耳を傾ける人が多いのではないでしょうか。
方や目の前の教員に対してどれほど興味を持っているでしょうか。
もちろん魅力的な人も中にはいるかもしれませんが、著名人とは比べるべくもありません。
2.時代背景があまりにも異なる
私は高校に勤めていますが、今年で41歳になるため、高校3年生と比較しても23歳差ということになります。
私の高校時代には携帯電話がかろうじてありましたが、高校生はポケベル全盛期で休み時間には公衆電話に行列ができていた時代です。
ネットの情報や動画授業などはもちろん使えませんでした。そうした状況の変化を考えると、当時のノウハウや成功談にどれほどの意味があるのか。
もはや化石レベルの話にしか現在の高校生には聞こえないのではないかと思うのです。
(私の世代が親世代の昭和話をうんざりしていたように)
実際、私達の受験した時代とあらゆる状況や条件が変化しています。
生徒に話すべき受験情報は、客観的に分析した情報や最近の生徒の成功例、失敗談であって、教員の昔話ではないでしょう。
3.そもそもそれほど話が上手くない
これは学校の教員が勘違いしやすいことなのですが、本人の認識とは裏腹に多くの教員は大して話が上手くありません。
授業が成立しているのは、教員と生徒という非対称性と強制力によるものです。
また、教科を授業するという限定的な内容であるがゆえに話を聞かせる環境が出来上がっているに過ぎないのです。
しかし、話し好きの教員はとても多いのです。
高校生にもなると、大人の対応ができる生徒も多いため、表面上は聞いているように振る舞っていたとしても、欠伸を噛み殺しているだけのことも少なくないのではないでしょうか。
年を取ると自慢話が増える
年を取ると自慢話が増えていくようです。データベースに蓄積されていった成功例が行き場を失い、溢れ出てくるのかもしれません。
自分自身も意識して自慢話(的な内容)を延々話すような、高齢老人にならぬように生きていたいところです。