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【題未定】平等の誤謬──林尚弘氏への反論と入試制度に潜む本当の不平等【エッセイ】

 武田塾の創業者である林尚弘氏が自身の公式XアカウントでAOや指定校推薦に関して否定的な言説を行ったことが話題になっている。

 林氏が個人的にそう思う分には全く問題ない。個人の思想信条に関わる問題であるからだ。しかし彼の語る「一般受験のみ」が「何の差別もない平等な」制度かと言えば、それは事実と少々異なる。要は彼は自身が真実と信じることを語っているが、それが誰にとっても正しい普遍の真理というわけではないということだ。

 この点に関しては私自身、何度もnoteで記事として書いているが、一般入試は決して平等なシステムではない。一般入試で高得点を取るためのスキルを取得するためには、高額な課金を必要とするケースが多いからだ。例えば小中学校から私立に入学したり、塾に長期間通ったり、といった具合だ。これは「2月の勝者」などの作品を読めば教育産業に馴染みのない人にも理解しやすいのではないだろうか。とにもかくにも課金を行うだけの経済的基盤のある家庭に生まれた子供が明らかに有利な制度なのである。

 もちろん個人の努力が重要なのは言うまでもないことだ。しかし、課金可能な家庭に生まれた子供の多くはそもそも幼児段階からの家庭教育や文化によって努力をする当たり前のラインが他の子供たちよりも高いことが多い。したがって非課金勢と比べても努力に対する負担感は圧倒的に軽いケースがほとんどだ。

 一般受験は一見すると公平性を担保したシステムに見える。そしてそれこそが誤謬である。立っているスタートラインが異なるのに、ゴールラインをそろえることをどうして公平であると呼べるのであろうか。

 もちろん、その点においてAO(現在は総合型選抜)や指定校推薦が完全に公平であるかと言えばそれも異なるだろう。恣意的な運用やライン引きを行うことも可能だからだ。とはいえゴールラインを一律に合わせないことが平等であるという考えも決して間違いではないないのだ。

 おそらく、日本のエリート層の多くはこの林氏と同様の考え持つ人が決して少なくないだろう。自身が受験秀才であるがゆえに、自分の努力を否定されるような気がするAOや指定校推薦に対して違和感、反感を抱くのかもしれない。

 これはあくまでも仮説であるが、学力試験が社会的に有意な効果を発揮するのはある一定以上の学識を必要とされる層の選別ではないだろうか。それこそ戦前の帝大生などの一部のエリートを選別する意味では学力試験は必須であっただろう。今と異なり知識を外部記憶に依存することができない時代において、学力試験の優劣は実務能力の優劣に大きく影響したのは間違いない。

 ところがDX化が進み、大学進学率が50%を超える時代においてその1次元的な能力選別方法が50年前と同様の価値を持つかと言えば、これには大きな疑問符がつくだろう。また情報化社会による知識の並列化が学力試験のある種の「攻略法」を生み出したことも事実だ。それを習得することに経済的負担が伴うことで、知識層の固定化が進み社会の流動性が失われたことが現代日本における停滞感ではないかとも思うのだ。

 言うまでもないことだが、AOや指定校推薦が一般入試よりも優れた制度であると主張しているわけではない。ただ、これらの制度もまた異なるベクトルの優劣を競う基準として十分に機能させるべきであるということだ。そしてそれらの合格者が一般入試合格者と組み合わさることこそが大学という高等教育機関においてそれぞれの学生の良き学び、良き成長につながるのではないだろうか。

 画一的な同質性よりも多様性こそが生物の、そして人類社会の進歩に近いという考えは決して間違いではないはずだ。

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