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教員は「感動ポルノ」といかに戦うか
学校教育の場には運動会、部活動の大会、発表会、クラスマッチ、卒業式など人生の一ページとなりそうなイベントが溢れています。
こうした行事は教育上の何らかの目的をもって実施を行われています。
ところが、こうした行事の目的がすり替わり、皆で感動するだけを目的とするようなすり替えが学校現場では頻繁に行われてきました。
今回はそのことについて考えたいと思います。
「感動ポルノ」とは何か
まずは定義を確認します。
感動ポルノ
感動ポルノ(かんどうポルノ、英語: Inspiration porn) とは、2012年に障害者の人権アクティヴィストであるステラ・ヤングが、オーストラリア放送協会(ABC)のウェブマガジン『Ramp Up』で初めて用いた言葉である。意図を持った感動場面で感情を煽ることを「ポルノ」(ポルノグラフィ)という形で表現しているが、ポルノ自体は性的な興奮を掻き立てるものに使われる。
意図的に感動をあおるような演出などを行うことを指します。
もとは障害者のテレビ利用、日本で言えばこの時期に放送される愛が地球を救う番組などのことを指していました。
近年では用語の利用が拡大され、様々な場面での感動することを目的化してしまう現象を揶揄する表現として使われています。
教育現場が陥りやすい罠
学校では多くの行事が行われます。それらの一つ一つは基本的に何らかの教育的な目標をもって設定されています。
修学旅行であれば以下の通りです。
高等学校学習指導要領(文部省告示第58号 平成11年3月29日)
第4章 特別活動第2 内容C 学校行事
(4) 旅行・集団宿泊的行事平素と異なる生活環境にあって、見聞を広め、自然や文化などに親しむとともに集団生活の在り方や公衆道徳などについての望ましい体験を積むことができるような活動を行うこと。
ところが、修学旅行に関しては「思い出作り」という言葉に縛られています。
生徒や保護者がそういった認識であるのは仕方がない側面もあります。教員でさえもそうした意識になりがちです。
不参加生徒に対する過剰な配慮などはまさにその典型でしょう。
修学旅行の目的はあくまでも「見聞を広め、自然や文化などに親しむとともに集団生活の在り方や公衆道徳などについての望ましい体験を積む」ことにあります。
友人と仲良しごっこにいそしみ、青春の思い出の1ページとして感動することは全く目的外でしかないのです。
こうした事例は部活動や卒業式など、学校行事のあらゆるところに存在します。
なぜ「感動ポルノ」化するのか
こうした「感動ポルノ」化現象はどうして発生するのでしょうか。
学校行事などは一生のうちに一度しか経験しないものが多いため、生徒たちはその事前情報をメディアから得るケースが多いようです。
ドラマ、マンガ、アニメ、あるいは歌の歌詞にもそうした経験と感動話で彩られたものが溢れており、彼らは行事と感動がセットであることを誤認することになります。
また、その経験者である大人は生徒に自分の感動した経験を語ります。
(あるいは先輩から後輩、という流れも存在するでしょう)
さらには善意から、自分の感動経験を追体験させたいと考えて、無意識に行事の中にそうした感動体験を盛り込むことになります。
その結果、「感動ポルノ」化が加速し、本来の目的が軽視され、感動を主目的としたイベントが誕生することになります。
「感動ポルノ」といかに戦うか
実際、「感動ポルノ」好きの教員は多いようです。
これは学校という環境の中での適者生存の結果が教員であることが理由と私は考えています。過去記事にも同様の考察を書いています。
確かに、「感動ポルノ」化は多数の賛同者の理解を得ることができるでしょう。
学校が楽しい、部活に汗を流し友人と切磋琢磨するような人には諸手を挙げて迎え入れられるでしょう。
また「感動ポルノ」化によって満足感が上がり、教育効果が向上するのであればそれを強く否定はできないでしょう。
しかし、そうしたところから距離を置く人間も必ず存在します。
そんな人たちのためにも、全員が「感動ポルノ」中毒ではあってはならないと思います。
そのために、私は担任として行事に関わるときも一歩引いた立場を常に意識しています。
これが私なりの戦い方なのかもしれません。
(ただの陰キャ、チー牛教員の言い訳と取られても否定はしません)