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「ホワイト社会」化と教員の在り方

「ホワイト社会」とは

「ホワイト社会」とは評論家、オタキングの岡田斗司夫氏が提唱している概念です。

詳しくは動画を見るのが一番早いのですが、簡単にまとめると

  1. ポリティカル・コレクトネスの重視

  2. コンプライアンス

  3. 集団主義からの脱却

これらを重視し、それが人間の価値や評価基準として認められた社会の事です。

逆に言えば、これらに反する発言を公にすることで、極めてマイナスな(あるいは致命的な)評価を受ける社会ということになります。

以下に上記の三点をまとめます。

1.ポリティカル・コレクトネスの重視

これは人種や性別、宗教や政治思想、障害などによって不利益を受けない、多様性を尊重するというものです。相手の存在を尊重し、差別的な対応や侮蔑的表現を排除するという方向性を持つということになります。

2.コンプライアンス

法令遵守のことです。企業などの業務や労働関係の法令を守り、公正な契約や取り引きを行うということです。反社会的組織とのつながりの排除も含まれます。働き方改革などの違法労働やパワハラなどの労働問題とも関わるものになります。

3.集団主義からの脱却

個人の価値観や考え方を尊重し、集団による強制や同調圧力による意思決定から、個人の自由を尊重するというものです。Jock(体育会系)的な考え方からGeek(オタク)的な文化へ主軸が移りつつあるという動きとも連動しています。

ホワイト化する現代社会

従来はメディアに描かれた社会の表の部分や建前と本音や裏の部分というのは分かれているのが当然とされていました。ある程度使い分けることが大人の素養ともされてきたわけです。

しかし、それが変わりつつあります。

これは価値観の変化だけでなく、YouTubeやSNSなどの一人ひとりが発信するメディアの普及によって、その変化が与える波及効果が大きくになるということを意味しています。

岡田氏は「SNSなどに残されたログによって過去の自身の発言で評価される未来がすぐそこに来る」といった趣旨のことを述べています。

実際にその可能性は非常に高いでしょう。

そうであれば、「ホワイト社会」に適応する教育が学校には求められることになるでしょう。
(そうした近未来社会において学校という存在が求められるかどうかはまたン別の議論として)

「ホワイト社会」と学校文化

この流れに対して、

「いや、学校とはそもそもそういったホワイト社会的な場所なのでは?」

「むしろ社会から隔絶されたホワイトで世間知らずな空間が学校だよ」

といった意見が聞かれます。

確かに、一見すると学校という場は、元来が「ホワイト社会」化された空間であると思う人が多いかもしれません。

しかし、現実には全く異なる実態があります。

まず、ポリティカル・コネクトネスについてです。

髪色の指導は依然として存在していますし。ムスリム系の生徒への合理的配慮に対応できている学校も多くはありません。むしろ多様性への許容は学校という組織が最も受け入れ難い概念であるのかもしれません。

生徒への指導における言葉遣いなども、果たして人権を意識した声かけがどれほどできているでしょうか。特に体育会系の部活動において、個人の人間性や尊厳に配慮した指導ができているかは疑問の余地が多く残ります。

コンプライアンスに関しても、いじめや暴力事件などを学校内で密かに処理するケースは多いようです。
(そもそも多くのいじめは刑事事件です、学校は粛々と警察に通報すべき案件です)

労働法規に関しては、むしろきちんと守られている学校の方が少数のように感じます。

そして集団主義です。学校における集団主義は未だ根強い伝統です。

例外を認めない校則、部活動などでの体育会系的な一律の指導、横並びの指導方針など依然として存在します。先輩後輩を基盤とした縦組織は学校文化の立派な副産物です。

さらに、社会に出れば理不尽なことがたくさんある、だから理不尽に耐えられるように学校でも理不尽にさらされるべきだ、という意見を言う教員は少なくないのです。

教員としてどう向き合うのか

では、この「ホワイト社会」化という変化に、私たちのような学校教員はどういった態度をとればよいのでしょうか。

私は正直、社会変化に対しどうやって生徒を育てるかを思案すること自体が無意味だと考えています。

個人の考え方や価値観は家庭での方針などにも大きく影響を受けるため、教員の働きかけだけで内面に変化を起こすことは困難だからです。

表面上の指導や、今さら道徳の教科書に載っているようなことを繰り返しても、そんなことは皆、耳にタコができるぐらい聞いていてわかっているわけで、それほど意味があることとは思えません。

ただ「知ること」のみ

だからこそ、私が出来ることは「知ること」ではないかと考えます。

教員が社会の変化を感じ取り、新しい価値観を頭から否定せずによく調べ、「知ること」で普段の振る舞いは確実に変化します。

自身の中で腹落ちせず、納得できなかったとしても、「知ること」は新しい考え方や価値観を許容するための第一歩と必ずなるはずです。

そうやって新しい概念や価値観をいち早く柔軟に受け入れていく姿勢を作ることこそが年長者の役割であり、教育機関の職員ができる最大限の実効性のある行動なのではないかと私は思うのです。


以上から、教員に求められる普遍的な素養がやはり知的好奇心なのではないか、という仮説を得ました。

ということで、私は知的好奇心を満たすために大手を振ってネットをザッピングすることにします…


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