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「教員が何かを変えた」という幻想とやりがい

学校の教員の仕事は生徒の人生に関わるものだ、という話をよく聞きます。

多感な数年間を、日中の時間を共有して交流することを考えれば、これは間違いではないでしょう。

しかし、実際のところ教員は生徒にどれほどの変化を与えることが出来ているのでしょうか。

教育の成果は検証不可能

「あの先生のおかげでオレは変われた」や「あの先生のせいで数学が分からなくなった」といった発言を聞くことがあります。

こういった発言を聞くと、真面目な人は「教員の仕事はこれだから重要なんだ」という感想を抱くのかもしれません。

しかし、まず押さえるべきは、これらは検証不可能である、ということです。

なぜならば、人生をやり直すことは出来ませんので、先生のおかげで変わった人の変化がその先生の存在や行動と因果関係を持ちうるかを証明ができないのです。

当然、数学が分からなくなった生徒の成績と教員も同様です。

もちろん、数学の点数が低い生徒の数と教科指導力不足教員の存在には、相関が見られる可能性はあります。しかし、それを持って因果関係を持つとは言えないのです。

全てが結果論的に語られている世界

教育においては、結果論的に上手く行った事例が正しいやり方として語り継がれるという文化がまかり通っています。

検証不可能であるはずのことが、成功例をもってあたかも科学的に証明されたかのように扱われます。

しかし、実際には同様の手法で上手くいかなかったケースがいくつも存在し、偶然上手くいった事例を持って論拠とすることが多いのです。

教員が何かを変えるという思い上がり

生徒の理解度が上がった、非行に改善が見られたといった事例は、所詮結果的にそうなったに過ぎません。

ですから、自分が教えることで成績が上がった、人格を更生できた、といったものは教員の思い上がりだと私は思います。

もちろん、創意工夫によって相関関係を見出すことは出来るかもしれません。

しかし、それは目が出る可能性の高い株の種を植えただけであって、決して人為的に芽吹かせたわけではないのです。

教員の仕事にやりがいはないのか

では、そんな自分のやったことに因果関係を見出すことすら難しい仕事にやりがいはあるのでしょうか。

むしろ、だからこそ面白いのではないか、と私は考えています。

ある一つの正しいやり方で必ず成功するとすれば、そこに創意工夫の余地はほとんどありません。

しかし、現実には授業や指導方法は多種多様で、どれが上手くいくかに絶対正義はありません。

同じ学年の別クラスでも結果には差が出ます。学年をまたいだ場合には尚更です。

絶対的な因果関係がなく、対象によって毎回どういう反応を起こすかがわからない、何をもって最高の手法と言えるかがわからない。

これほど面白いことはないのではないでしょうか。。

年を経て、指導方法が固まりつつあるからこそ

同じ仕事を続けると、マンネリ化してきます。

教科指導などにおいて、いつもの型が定まって、ある程度相関も読めるようになり、学級状況を無難な状態に持ち込むことにも手慣れてきました。

だからこそ、新しいことを取り入れることは大きな刺激になってくれます。

ここ数年のICT機器の導入やオンライン授業もその一つです。

次年度からは高校数学に確率統計分野が拡充されます。

これで少しは退屈せずに済みそうです。

そうやって試行錯誤した結果、たまたま偶然にも「変わった」のならば、こんなに嬉しことはない、ということで…


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