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【題未定】選挙で問われる教育:耳当たりの良い主張に潜む危険【エッセイ】
先日、ある政党が衆院選に向けて公約を発表していた。内容としては消費税の廃止、社会保険料の引き下げ、季節ごとの10万円の支給、原発廃止、脱炭素へ200兆円の投資、子供手当の引き上げ、保育給食子供医療の無償化などと、盛り沢山の内容となっていた。
まず初めに断っておくと、私自身はこの政党を支持しているわけではないが、殊更に敵視をしている立場でもない。彼らの主張の中にはうなずける内容のものも複数存在する。とはいえ何事にも限度がある。少なくとも私には彼らの主張が総論としてはあまりにも支離滅裂で論理性を持たない空想になっているように見える。
例えば200兆円という投資額は2024年度時点におけるGPIF(年金積立金管理運用独立行政法人)の運用資産に相当する。あるいは日本国内の投信残高に匹敵する規模だ。これを特定の産業、しかも脱炭素というリターン可能性が不透明なものにその金額をつぎ込むのはあまりにも稚拙な主張と言わざるを得ない。
また季節ごとの10万円の支給、これはどうだろうか。仮に一人ずつ国民に給付した場合を考えると「10万円×1億人=10兆円」となる。これを季節ごとに配る場合、毎年40兆円の支出となる計算だ。現在の日本の国家予算が約110兆円、どう考えても不可能だろう。
こうした一部の政党のあまりにもポピュリズムに傾倒した主張を見ると、どんな人間が騙されるのか、信じてしまうのか疑問に感じる。彼らの主張を単純に計算しても、その費用が日本政府に捻出できるとは到底思えない。もちろん、現政府や与党が予算を食い物にしていること、無駄遣いを行っていることを否定はしない。しかしそれらの多くは慣例で計上されたものも多く、大半の現場では少ない予算の中でやりくりをしているというのが現実である。
この手の主張をする政治団体のスポークスマンは極めて優秀である。中身よりも勢い、アジテーション、場の空気を支配する能力に極めて長けている。今回のこの主張を行う政治団体の長も相当なものだ。さすがは演技派の俳優だっただけのことはある。彼のインパクトの大きい言葉、強弱のつけ方、アクセント、身振り手振り、騙される人間がいるというのも分かる話だろう。
だからこそ、そうした耳当たりの良い情報、先導者の言葉に乗せられないようにしなければならない。それは決して難しいことではない。最低限の知識と論理性さえあれば、論破は出来ずとも疑いを確信に変えることは容易だ。そして主張の矛盾点を見つけるのに義務教育レベルの計算と知識があれば十分なのだ。
繰り返しになるが、この政治団体の全てを否定するつもりはない。現与党のふがいなさ、いい加減さに憤慨する気持ちも存在する。裏金に関してを全く問題ないと考えているわけでもない。少なくとも現政権を全肯定するつもりなど毛頭ないのだ。しかしそれでもあの党の主張はあまりにも荒唐無稽である。
かつて、埋蔵金ですべてが解決すると主張した野党が選挙で大勝し、政権就いた。ところが肝心の「埋蔵金」なる金はどこにも存在せず、一方でインフラ産業を軽視した結果、震災被害の拡大、復興の遅れや景気の悪化を招いたことは記憶に新しい。あの時はマスコミがこぞって持ち上げて、そして多くの国民が騙された。騙した側が批判を受けるのは仕方がない。しかし最も批判されるべきは、義務教育レベルの知識や技能で判断を下さなかった多くの国民自身なのだ。
民主主義はいかなる政権を選ぶのも国民の選挙の結果次第である。仮に自分たちに害する政権を選ぶことがあったとしても、それは自分たちの責任の範疇なのである。あの震災前後の諸問題に関しての責任もまた、当時の与党政権を選出した国民に帰するものなのである
大事なことはそうした選択をしないために、弁の経つアジテータに騙されないようにも、最低限の教育を徹底し、それを活用する国民を一人でも多く育成することが重要である。少なくとも数値的な無理がないか、常識や法規と照らし合わせて無理や矛盾が無いか程度の判断力の養成は教育によって十分達成できるラインであるはずだ。
こうした選挙のたびに教育の重要性を再確認する。リベラル、保守といった個人の主義主張の段階以前のヒトラーの尻尾のような先導者に騙されないような人材の育成こそが民主国家における教育の使命なのかもしれない。そしてその役目のいくらかを果たす義務が自身に課せられていると痛感するのだ。