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【題未定】済々黌の歴史にみる熊本の教育と政治の交差点【エッセイ】
前回、熊本大学医学部の歴史に関して書いていると、熊本を代表する高校、済々黌が関わる箇所が散見された。熊本県の人は誰しもが知ることではあるが、熊本県の政財界などに多数の人材を輩出している名門校が濟々黌である。そして熊本の教育史を騙る上で済々黌は欠くことのできない存在の一つでもある。
しかしこの済々黌は他県の公立高校には見られない、特異な歴史と経緯を持っている。そこで本稿では、その歴史を辿ることで熊本の教育と政治文化の結びつきを明らかにしたいと考える。
済々黌の母体は明治12年(1879年)に「同心学舎」として設立される。設立に携わったのは熊本県士族で後に衆議院議員となる佐々友房。佐々は西南戦争において薩軍に参加し、開校時は獄中にあったと言われている。その2年後、明治14年(1881年)に「同心学校」に改称するも経営難から廃校。翌年、明治15年(1882年)に「私立済済黌」を発足させる。
その後、明治21年(1888年)に 附属の女子学校(現私立尚絅高等学校)が設立される。そして明治24年(1891年)に 済々黌、春雨黌、熊本文学館、熊本法律学校が合併し「九州学院」となる。
ところが明治27年(1894年)に済々黌は 「九州学院」より分離して、「熊本県尋常中学校」と改称する。この離脱劇には諸説あるが、開校まもなく生徒騒動が発生し大量の退学者が出たことなどが理由とされている。明治29年(1896年)には山鹿、八代、天草に現鹿本、八代、天草高校の母体となる分校を設立する。
そして明治32年(1899年)に熊本県中学済々黌と改称。その後生徒数増によって明治33年(1900年)に第一済々黌と第二済々黌に二分し県立に移管。第一済々黌は校地を移転し現在の黒髪町へ。第二済々黌はそのまま大江町に留まった。翌年、明治34年(1901年)「熊本県立中学済々黌」、第二済々黌は「熊本県立熊本中学校」と改称する。ここでようやく度重なる制度や学校の統廃合から安定期を迎え太平洋戦争終戦までこの体制を維持することになる。戦後、昭和22年(1945年)、学制改革によって「熊本県立済々黌高等学校」として現在に至る。
熊本県の中等教育は済々黌の歴史を見ても分かるように、私立学校が公立移管を経る、しかも藩校由来ではない学校が途中で県立になっていることが非常に特徴的である。近隣県と比較しても、藩校からの歴史を抱えつつ断絶期を挟んで県立であった福岡の修猷館、一貫して県一中であった鹿児島の鶴丸や大分の上野丘とは一線を画する点である。
この点に関しては県政の勢力争いが教育界に及んだことが原因であるという説が有力である。済々黌設立の立役者、佐々友房が所属した紫溟会は「国権派」と呼ばれ(当時における)保守的な政治思想を標榜していた。一方、議会で少数派であった「民権派」(主権在民を旨とするリベラル派閥)実学党と近く、実学党と繋がりが深かった県立中学校である「熊本中学校」(のちの第二済々黌とは異なる)は議会多数派に押し切られる形で廃校になってしまう。
その結果、私立学校であった「済々黌」は私立としての独立性、独自性を保ちつつ、当初県内唯一の中学校として実質的には県立として扱われるといういびつな構造が20年近く続くことになった。そのためか、旧済々黌を母体とする済々黌、熊本、およびそれらの分校では保守的な校風と自主独立の気風が混在しているのが特徴となっている。ここには「国権派」の思想がいまだに校風として根付いているとも考えられはしないだろうか。
熊本人の間では初対面で出身高校を相手に訪ねる、という文化、習俗がかなり広く定着している。この行為は大卒者が少ないといった事情だけではなく、実は別の意図も存在するのかもしれない。熊本の中等教育史は県政や政治思想と深く結びついており、その結果、高校が社会的な立場を象徴するアイコンとしても機能してきたのではないだろうか。
済々黌をめぐる歴史は、単なる教育機関の変遷を超え、地域社会や県民の価値観形成の歴史ですらあるのだ。この歴史を紐解くことが、中等教育が社会に与える影響と果たすべき役割を示唆する重要な手掛かりになり得るのではないだろうか。