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相手の信仰する宗教を尋ねる行為とそれ許し、育てた学校教育の暗部
国会で打越議員が山際経済再生担当大臣に対し、統一教会の信徒であるかどうかを尋ねた行為が問題になっています。
大臣は答える必要はない、と言いつつも統一教会信者であることを否定をしていますが、
この質問に対して様々な評価があるようです。
そうした中でもよく見るのが、「問題がある宗教なのだから、公職である大臣が関与していないかを尋ねるのは当然だ。」とする意見です。
信教の自由
日本国憲法第20条には「信教の自由」に関する記述があります。
日本国憲法第二十条
信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
この中には「信仰告白の自由」も含まれていると考えられており、人はどんな宗教を信じるかは自由であり、その信仰を秘匿する自由があります。
にもかかわらず、国会の場で、大臣に責任追及をする場でこうした発言を行うのはあまりにも順法意識の低い行動です。
しかもこの発言をしたのが弁護士資格を持つ議員というのですから、笑い話にもなりません。
Twitterの教員アカウント勢
どうやらTwitterの教員アカウントを名乗る人たちの多くは、アンチ与党であり、安倍政権に反感を持っていた人が多いようです。
(免許更新制の恨み、恐るべしといったところでしょう)
当然ながら、現政権に対しても批判的であり、道徳の教科化を統一教会と絡めて陰謀論にはまっている人が相当数存在する印象を受けます。
そうした人たちにとって、今回の信教の自由を脅かす質問は、むしろ溜飲が下がる思いなのかもしれません。
しかし、個人的な政治的スタンスを抜きにしても、今回のような信仰する宗教を公の場で尋ねる行為はあまりにも宗教に対しての認識が浅い行為ではないでしょうか。
こうしたことから、教員という職業の人たちの法律に対する感覚の鈍さがうかがえるようです。
「統一教会」の問題ではない
この問題に対し、「統一教会はこれほど問題を抱えているのだから、国務大臣に信仰を尋ねる行為はむしろ市民感情にかなった行為である」という主張をする人たちがいます。
それを是とするのであれば、市民感情に沿えばいかなる脱法的な処分を許されることになります。
日本は法治国家であり、法の支配を受ける立憲主義の国家です。
恣意的な法律の運用を許すことは決して許されません。
仮に悪魔崇拝主義者だとしても、その信仰は尊重されるべきであり、告白を強要することはあってはならないはずです。
(悪魔崇拝者が違法な行為をすることと、信仰することは別問題です)
学校という脱法組織
長らくの間、日本では学校という組織が教育機関だけでなく、警察や裁判所の代理を行ってきた歴史があります。
身元引受に教員が行き、軽犯罪に関して示談で済む場合は警察は関与せず、学校という治安維持機構兼司法機関が私刑を行う措置が許されてきました。
その結果、校則と体罰や部活動によって教員が生徒を支配し、矯正するという習慣が広まりました。
そこでは、司法、立法、行政が一体化した恣意的なルールの運用が行われ、教員も生徒も疑問に感じなくなりました。
そうした環境に適応した人たちが大人になり、問題を起こしている宗教だというだけで、信教の自由の侵害を躊躇なく行うのでしょう。
教育機関としての存在に戻る時期が来た
統一教会信者であるかを尋ねることに肯定的な人たちは、善意や市民感情によって他者を批判し、否定し、排斥しています。
そうした人たちを作り上げたのが既存の学校文化です。しかしそれらはもはや限界を迎えています。
学校から治外法権を撤廃し、教育機関としての存在のみの学校に縮小する時期がもうすでに来ているのではないでしょうか。