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『教「師」』から『教「員」』へ
かつての学校の先生
昭和の時代と現代における、学校の先生の社会的ステータスは大きく変化しました。
これには様々な社会的背景がありますが、その一つは大学進学率の向上です。
学校の先生になるためには、基本的に大学を卒業する必要があります。
しかし、日本の大学進学率が戦前戦後も低い時代が続き、昭和の末期においても大学進学率は18歳人口の3割強ほどでした。
それ以前の世代が現役であった当時の社会状況において、大卒は貴重な存在でした。
多くの労働者は高卒(あるいは中卒)で就職していたわけです。
そんな中で、地域の学校の、特に地方においては、「学士様」である先生は無条件で敬われる「師」でした。
「師」とは
① 学問や技芸などを人に教授する者。先生。師匠。
② 仏語。道を説いて弟子を導く僧。出家の際にたちあう得戒師、戒定慧の三学を教える依止師などの称。
「師」とは上の①が一般的な意味で使われていますが、②の仏語的な意味合いを含む形で、道(=道徳)を説いて弟子を導く、という意味を持ち合わせています。
そして、かつては学校の先生は全て教「師」だったわけです。
村の賢者としての存在
また昭和の時代以前には、学校の先生の中に郷土史、土着文化や遺構の研究者として在野の人々が多数存在していました。
村の賢者的な存在といってもよいでしょう。地域の人々の知恵袋であり、尊崇の対象であり、畏怖すべき存在でもありました。
ところが、現在そういった人はほとんどいません。
大学院の設置数や進学率が上がったことで、研究者が社会全体の中で大学組織に遍在するようになったということもありますが、もっと大きな変化が要因にあります。
それは学校の先生の「多忙化」です。
社会的ステータスと聖職性の引換
学校に求められることが変化しました。
学業、授業を中心とした教育を行う機関から、生徒のケアや支援など保護者が仕事の時間に子供を預かる場所として託児所の機能が強く求められるようになりました。
これにより、学校の先生は「師」としての存在から、託児所の管理人としての役割を期待されるようになりました。
その結果、学校の先生という神聖化されていた職業はその社会的ステータスと聖職性を同時に喪失しました。
一労働者としての教員
こうして、学校の先生という職業は、村の賢者である『教「師」』から、託児所の一労働者である『教「員」』へと変貌しました。
ところが、社会の一部には学校の先生に村の賢者や聖職者としての役割を期待する人や文化の名残がいまだに存在します。
その理由としては、時代の変化についていけない人たちの存在だけでなく、学校に今まで押し付けてきた様々な無理難題の解決を地域社会や企業が引き受けたくないという、既得権を手放せない事情もあるでしょう。
そんな中、教員の労働環境や社会情勢の変化と、労働者としての権利確保や法令順守の中で、ダブルバインド状態にあるのが現在の教員の抱える労働問題の根幹にあるのではないかと考えています。
この問題の解決を目指すにあたり、地域や社会、行政は学校の先生に対し、『教「師」』なのか、『教「員」』なのか、どちらのありようを求めるのかの決断を迫られているのではないでしょうか。
(とはいえ前者になることは実質不可能のようですが…)
高等学校においては、小中学校に比べて、まだそこまでの浸食を受けてはいませんが、その流れは現在進行形で進みつつあります。
そんな状況下において、私自身はもはや『教「師」』という矜持を持ってはいません。
一労働者である『教「員」』としてのパフォーマンスを発揮する方向に舵を切っています…