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【題未定】課外授業の変質と大学入試のジレンマ【エッセイ】

 勉強をさせられる、と感じている生徒は少なくない。地方の私立学校の場合は特別進学クラスが設置されており、そこでは普通クラスよりも授業時数や課題の量を増やして大学進学への学力確保を目標とするケースは少なくない。あるいは地域に一つしかない公立の普通高校なども同様だろう。

 そうした学校において、学校の課題と授業が部活動や課外活動の時間に食い込んでしまい、思うように活動できないことへの不満の声は方々で聞こえる。ネットスラング的な言い方をすれば「自称進学校=自称進」と呼ばれる学校であり、こうした学校は全国津々浦々に存在する。

 もちろんそうした指導方針が昨今の情勢にマッチしていないのは明らかだ。推薦や総合型選抜で座学よりも経験やコミュニケーション能力、文章力を問われる試験が増える中、中下位層の生徒までがちがちに拘束をして勉強させるというのは非効率的だろう。

 九州においては「課外授業」という正課の授業とは別に、時間外に授業を行う文化が存在する。ここ数年で社会問題化し減少はしたが、そうした風習が残る学校も多い。要は無理やり勉強時間を作るという算段があるわけだ。

 この「課外授業」、もともとは生徒や保護者の要望によって行われ始めたという。地方においては高校生が通うことができる塾や予備校が少なく、放課後に自学するしか学習方法が無かった時代に作られた文化だ。それがいつからか変質し、学校側が生徒に強制的に受講させる授業として定着化し、「強制課外」などという本来の意味とは矛盾する言葉まで生まれてしまったようだ。そしてこの結果学習の目的が変化していく。

 本来は本人が勉強したいがゆえに学校に通い、課外授業を受講していたのに、いつしか無理やり強制的に勉強させられるものと化してしまった。現代においてこの状況はさらに進み、親世代もまた強制的に課外授業を受けさせられたという意識を抱えている。その結果、望まぬ勉強を強いられる子供とその子供の不満を学校に抗議する保護者の組み合わせとなるのは必然だろう。

 こうした原因の一つは日本の教育における受験への偏重と大学入試の難化だ。より正確に言えば学力勝負をする必要性が低い人たちも巻き込んで受験という場で優劣を競うことになったという拡大化が原因だろう。

 もともとは大学が一部のエリートのもので、その狭く閉じた社会での競争として機能していた。ところが進学率の向上によって国民の半数が参加するゲームとなってしまった。サッカーは11人でプレイするためのルールとして最適化されているのである。プレイヤーが50人になればルールを変えるのは必然である。ところが50人ゲームをもとのルールで行っているのが日本における大学入試ということになるだろう。

 先日の武田塾創業者の林氏への批判記事にも関わる内容であるが、もはや筆記試験の得点という一律の基準は現代日本の大学進学事情にはそぐはなくなっているようだ。

 もちろん、昔から生徒というのは勉強を嫌がっていたし、教員は煙たがられる存在であった。それでも高校になって、進学を考える生徒や保護者はその方向性には賛同していたし、我慢して学業に励んでいた層が大半だった。しかし今や大学進学者においてすらむしろ多数派であるという。かといって高度化する社会において、大学進学の門戸を狭めても道理は通らないだろう。大学の門戸を広げつつ、多様な評価基準で多くの人に高等教育を受けさせる方法こそが推薦であり総合型選抜なのではないだろうか。

 社会全体で教育の在り方を再考する時期に来ている。「勉強をさせられる」という人々の感覚はその社会の変化の良き指標だろう。これを変えるには、教育に関わる者だけでなく、教育を受ける側、過去に受けた人も含めて教育に対する意識を改め、多様な学び方を認め合う文化を築いていく必要があるのではないだろうか。

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