【題未定】「思考力先行」の弊害―教育現場で見過ごされる知識の不足【エッセイ】
昨今の教育業界は「思考力」の極端な重視があらゆる場所、分野に及んでいるのは業界関係者ならば周知の事実だ。学習指導要領という学校教員にとっての金科玉条から、教材、試験などあらゆる部分にその傾向が見られる。
指導要領では「主体的、対話的で深い学び」という言葉が連呼され、教科書は「思考力・判断力・表現力」を養成するという名の下に課題学習のページを増量、共通テストでは長文形式の読み取り問題が跋扈している。
これらが全く意味をなさないということは当然ながらない。「思考力」は重要であるし、その能力を高めるために「探究」的な要素の強い問題に取り組むこと自体に効果があるだろう。しかしどうにも昨今の傾向は「思考力」を重視するあまり「思考力先行」に陥っているように感じる。
新指導要領以降に特に顕著だが、お手本となる授業スタイルがいわゆる講義型から話し合い、討論、熟議型へと移っている。確かに講義型スタイルで生徒がしっかりと学習出来ているかというと疑問ではある。聞いたふりをしている子供は少なくないだろう。テストや問いかけをすればその定着具合は一目瞭然である。
でははたして彼らが話し合いをしていれば考え、記憶しているかというと決してそんなことはないように見える。事実、いわゆる振り返りやリフレクションの時間を取っても、本時に何をしたか覚えていないという生徒はそれなりの割合に上る。そしてその理由は明らかだ。決定的に知識が不足しているためだ。議論をするだけの知識が足りていないため、議論の前提を満たしていないケースが増加しているように感じる。
こうした状況は昨今の生徒の様子をからも見える。彼らは問題や課題に関して考える姿勢は見せる。話し合いをさせればその内容に関して意見を交換することも我々世代と比較すると積極的であるように見える。ところがその思考や討論の中身に関する知識は乏しいため、議論が堂々巡りになってしまったり、稚拙な意見の応酬になりがちでもある。結局、指導者の助け舟でかろうじて着地点を見出すケースは決して少なくないようだ。
誤解のように確認しておくと、「思考力」を伸ばすという意図も、討論や議論を組み込もうとする試みも決して間違っているわけではない。ところがその意識が前面に出過ぎてしまい、「思考力先行」になってしまっているのだはないか、ということが問題なのだ。それこそ方針を決めた文科省、具体的なカリキュラムや教育課程に落とし込んだ専門家、そして現場で指導にあたる教員、その誰もが「思考力先行」に囚われているのではないだろうか。
ここ数年の学習指導、なかでもこの1年における経験でそうした思いはより強まったように感じる。過去の学習指導が決してベストだったわけではない。卒業後には学習内容の多くを忘れてしまう受験ゲームの亡者を作り出したり、あるいはその逆にゆとりという名の学力不足を送り出してきたことも事実だ。そしてそのたびに微修正を繰り返してきたのが日本の教育史ではなかったか。
今だからこそ、地に足のついた学習指導が必要なのではないだろうか。単語や語彙などの知識の獲得や、計算力の向上はその代表的な例だろう。議論や討論の土台が出来つつあるからこそ、知識の不足が生徒の成長においてかつて以上のボトルネックとなっているのではないかと危惧するのだ。
現場レベルではできることから始めていこう。さあ、あとは文科省が動く番だ。