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「シェフ」から「ソムリエ」へと変わる教員の役割
職業と役割の変化
教員の仕事の変化について昨今さけばれているのが、ティーチングの役割の低下、というものです。
ところがこのニュアンスが非常に分かりづらく、教員の仕事は無くなる、授業は動画やオンラインで十分、といった極論を口にする人も多いようです。
教員の中にも(特に年配の人は)教員の仕事は授業だから、動画なんぞ使わずに俺の授業を聞け、と高圧的になる人もいるようです。
こうした原因は学校や授業というものに対する固定観念と、言葉の定義の不明確さかもしれません。
これまでの教員は「シェフ」だった
私はこの手の話を教育関係以外などの人に聞かれた際、「教員の仕事がこれまではシェフだったんですが、ソムリエに変わるんです」という返答をすることにしています。
「シェフ」はここでは料理人という意味で使っておりコックと言っても良いでしょう。
要は材料を見極め、実際に調理し、その場で出来立てを客に提供する仕事です。
これは教材や教科内容を見極めつつ、その場で授業を組み立てながら生徒の理解を深める行為と近い手順と言えます。
ところが、料理の世界では最近はその場でつくらずともクオリティの高い料理が提供できるようになりました。
その場で調理をするのではなく、セントラルキッチンで調理済みのものを瞬間冷凍し、それを提供するようなレストランも増えています。
もちろんシェフの存在意義が無くなったわけではありませんが、客の望む最適解を探す仕事がより求められるようになったと言えます。
(実際、並みの技術レベルのシェフならばセントラルキッチンの方がクオリティの高いものを提供できる)
こうした状況のために、ソムリエ、あるいはそうしたアドバイスをする仕事の重要性は高まりました。
「ソムリエ」となった教員
同じようなことが教育においても起こりました。
卓越した授業スキルの予備校講師などの動画をオンラインで視聴できるようになったことで、その場で授業をするよりもあらかじめ作られた動画を流す方が学習効率が高い、という状況が発生したのです。
料理の場合、その料理の味付けや季節などと相性の良い飲み物をアドバイスし、最高の体験を提供するというのがソムリエの仕事です。
これは料理やワインが多種多様で、専門知識が浅い一般的な客が最適な選択をできないためにそのサポートする、ということです。
これが教育の場でも起こったということです。
多種多様な授業動画、教材、カリキュラムや単元の入れ替えや前後によって初学者は最適な学習を行うことが、選択肢が多すぎるがゆえに悩むようになりました。
どのような勉強法、参考書、授業動画を生徒の段階や状況を見ながら選択のアドバイスをする「ソムリエ」的な要素が強まっています。
「ソムリエ」は料理の知識もあり、調理スキルもある
こうした話に対し、じゃあ教員には教科を教えるための知識やスキルは必要なくなるのだ、という曲解をする人がいます。
これも大きな間違いで、最適な選択をするためには知識もスキルも必要となってきます。
「ソムリエ」はワインだけでなく料理や素材、調味料などに深い造詣がありますし、調理に関してもある程度のスキルを持っていることがほとんどです。そうでなければ確認もできず、説明もあいまいになるからです。
日本ソムリエ協会会長で、日本において最も有名なソムリエの一人である田崎真也氏はかつて料理の鉄人という料理対決番組でイタリアンのシェフ(神戸勝彦氏)と対決し勝利しています。
(やらせだとか仕込みだとかそういった野暮は言わずとも、調理スキルが実際にあることは番組を見ていればわかりました)
教員にも授業スキルは必須
同様に、授業をする場面が減少したとしても、教員には授業スキルが必要ですし、いざとなればサッと説明をするような技術は絶対に求められます。
料理と勉強が最も異なる点は、本人がその内容を取り入れ吸収するためには一定の努力や工夫が必要だからです。そのために細かい説明し直しは絶対に必須なのです。
一方で学習を深めるための手段や方法、教材や単元、教科知識をこれまで以上に求められるようになります。
有名講師の動画がすべての単元、範囲、内容を網羅出来てはおらず、いわゆる「ルート」と呼ばれる参考書の使用順序だけでは抜け落ちる部分も存在するからです。
そもそも論で言えば、自分で組み立てた授業を行うよりも、誰かの授業(含動画)をベースに範囲を絞らずに質問対応する方がはるかに難しく、教科学力が高くないと対応できません。
授業スキルに求められるレベルが下がっていることは、決して教員の業務が簡単になることを意味してはいないことが世間一般に周知されてほしいと思いますし、そして何より教員自身が理解すべきではないでしょうか。