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「防衛費」と「教育・子育て支援」の議論を混同する人たちの非論理性

先日、岸田首相は1兆円規模の防衛費の増額に伴う増税の方針を打ち出しました。

私自身、この方針には賛成なのですが、いかんせん財源確保のために増税、しかも法人税をその8割に充てることについては疑問に感じています。

景気が冷え込む中、賃金増への圧力をかけるべき政府が企業収益を悪化させる政策を行っては意味がないからです。

ただ、今回はそうした財源議論ではなく、防衛費の増額そのものに焦点を当てたいと思います。

防衛費と教育支援を混同する教員クラスター

防衛費の増額に関して、そんなものにお金を使うのならば教育や福祉に回してくれ、というロジックを使う人が結構な数存在します。

茂木氏はその代表的な論者の一人ですが、一般的な教員のTwitterアカウントでは同様の主張をする人が多いようです。

どうやら教員という職業の人たちの中には防衛費と教育支援は二律背反と考えており、防衛費の重要性に関する認識が欠けている人が相当数いるように感じます。

教育支援を手厚くすることは重要課題だが、防衛費はその前提

そもそも教育支援に関する内容は内政問題であり、これは外交的に安定した国家体制を維持した上での前提の議論になります。

極東情勢が不安定となり、毎日のようにミサイルが飛んできたり、他国の偵察機が領空周辺に飛来し自衛隊機がスクランブル発進しています。

不審船が領海内に侵入し、海上保安庁が対応することが頻繁に発生しています。

こうした不安定な情勢において、日本の防衛費を従来の目標値であるGDP比1%に抑えていては、世界トップの軍事費の二大国に挟まれた国土や国民を守ることが難しいのは明らかです。

確かに教育や福祉といった問題は今後の日本を考えた上で重要な課題です。

しかし、それは日本という国家制度や国土、国民の自由や権利が保障されている前提の話なのです。

明らかに低い日本人の論理性

こういった全く異なるレイヤーを混同するのが日本人にありがちな議論であり、これまでの教育が抱える問題点なのかもしれません。

当然ながら教育支援を軽んじてよいことは全くありません。

教員の数の確保は喫緊の課題ですし、1クラスあたりの生徒数は減らすべきです。無駄な書類業務を削減すべきですし、残業が無い職場環境や手当が出る労働環境の構築は不可避だと考えています。

しかし、その問題を防衛の問題と絡めるのはあまりに幼稚な議論と言わざるを得ません。

仮に、防衛の問題であれば防衛費のGDP比をどの程度とするか、その費用を賄うのは増税か国債か、増税による経済力の低下の懸念、などを議論の対象とすべきなのです。

論理性の低さの原因と旧来の日本型教育

こうした論理性の低さは、よく言われる日本語による思考の特性や国民性に加えて、旧来の日本型教育の合わさった結果かもしれません。

画一性や統一性を重視した行事や習慣、校則に、文学作品に偏重した国語のカリキュラムなどがもともとの日本的空気を読む文化に拍車をかけています。

論理的に思考した結果、出た結論よりも周囲のお気持ちを優先することを強制された経験を持つ人は決して少なくないはずです。

また国防や国家観に関して、教育現場はあまりにも無責任過ぎました。

「戦後の反省」という言葉を錦の御旗にして、教員たちは自分自身が現実と向き合わず、生徒の目を国際社会の現実から隠し誤魔化してきたように思うのです。

新しい教育は日本人に論理性を獲得させることが可能か

学習指導要領や新課程の入試はそうした論理性の問題に向き合おうとする意志を感じるものではあります。

OECD2030への日本なりの回答であり、現状の最適解に近いでしょう。

その一方で、現実的な学校環境が指導要領のフィロソフィに追いついていないのも事実です。

依然として集団授業前提の人数、教員の減少と不人気、解決しない労働問題など課題は山積みです。

しかし、何よりも問題なのは、論理性を重視する教育を行う教員自身が、論理的な議論に慣れていないということかもしれません。

新学習指導要領や新課程入試が生徒の論理性の向上だけでなく、その指導を通して、私たち教員の論理性を高める機会にしたいところです。

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