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「納得のいく授業」と「費用対効果」や「コストパフォーマンス」は対立する
20年近くも前の話になりますが、教育実習に行ったとき「教師生活○十年で、納得のいく授業ができたことは数回だ。」という謙虚な話をされた先生がいたことを記憶しています。
就職してからも経験豊富な方や、研修会などでもよくきいた台詞であり、業界の中では一度は聞いたことのある人がほとんどではないでしょうか。
(あるいは口癖だ、という人もいるでしょう)
学校の教員というのは、総じて授業をすることが好きで、そこにプライドやこだわりを持っています。
そのため授業の改善や予習に時間をかけることをいとわない人は多いようです。
「納得のいく授業」の定義
では「納得のいく授業」とはいかなるものでしょうか。
まず「納得」するのは誰でしょうか。
教員側の教員側の「納得」は極めて主観的な評価しか得られません。自分自身が授業をしている側であり、理解できるように話をしているつもりです。
もちろん、毎回の反省点は必ず存在します。
授業というプレゼンが視聴者参加型のLIVEイベントである以上、反省点の存在しない授業というのはあり得ないでしょう。
では、生徒側の「納得」感の事でしょうか。これは「納得」感であれば定量的な評価は難しいですし、「納得」を「理解」と読み替えるのならばテストによる確認を必要とするため、一度の授業で評価をするのは適当ではないと感じます。
こうして考えると、「納得のいく授業」は教員側の「納得」と考えられるが、その評価は教員自身の主観的かつ内的なものに依存するということになります。
そもそも「納得のいく授業」は可能か
そもそもの問題として「納得のいく授業」は可能でしょうか。
評価上の問題として、性格的に自分に厳しかったり、自己肯定感の低い人の場合は「納得」をすることが難しいでしょう。
また、この「納得」をするという観点自体が、授業スキルが向上する前提に立った思考です。授業の準備をし、学力を高め、生徒理解を深めれば正比例的に授業スキルが向上するという前提のもとに考えています。
以前の記事にも書きましたが、私は授業スキル、特にチョーク&トークスキルの向上に関しては懐疑的です。
その上昇曲線はあたかもシグモイド曲線のような形状であり、ある一定のラインで漸近するイメージです。
この前提に立った場合、ある一定レベルまでは時間やコストに対してスキルの向上に効果がありますが、ある一定レベル以上になると費用対効果が極めて低下することになります。
(あくまでも主観です)
仮に「納得のいく授業」というものが存在したとしても、それにかける時間やコストが膨大であれば意味がありません。そうした点で不可能と言ってもよいのではないでしょうか。
「費用対効果」や「コストパフォーマンス」を教育の中に組み込む必要性
先日の埼玉教員超勤訴訟における原告主張にも見られますが、学校や教育の場においては「費用対効果」や「コストパフォーマンス」を度外視した、あるいは否定する考え方が根強いようです。
この源泉には教育を神聖視してきた昭和的価値観があるのかもしれません。
しかし、もはや教員を誰も「聖職」とは扱っていませんし、そうした考え方や世間的評価が戻ることはないでしょう。
そして、一労働者に過ぎない教員が費用やコスパを度外視しても世間的な理解も評価も得られないでしょう。
働き方改革や少人数制など、社会全体の理解を得ずに進むことはあり得ず、そのためには「費用対効果」や「コストパフォーマンス」を教育の中に組み込むことは必要不可欠です。
もちろん教育は国家百年の大計であり、金銭的な利益や目先の勘定だけで考えるべきではありません。
しかし、現在の教育現場においてはそうした「費用対効果」や「コストパフォーマンス」という概念を害悪として忌避する流れがあまりにも強すぎるように思うのです。
「納得のいく授業」という言葉には、そうした教育業界が抱える問題の根底の部分が表れているのではないでしょうか。