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【題未定】のどを痛めて声が出ないことで声を出せることのありがたみに気づく話【エッセイ】
毎年のようにのどを痛めて声が出なくなる時期がある。今回もその時期が来たようだ。昨日からのどに違和感があり、声を出しにくいと感じていた。とはいえ授業がある以上、声を出さないわけにはいかない。その結果、案の定ではあるのだが、今日の時点でまともに声が出なくなってしまった。
初めてのどを痛めたのは大学時代だったと記憶している。その時も風邪症状からのどに違和感があったのに、声を出してしまった。当時、アルバイトで塾講師をしていたが、声を出さずには仕事にならない職種だったことから無理矢理授業をしてしまったからだ。とうとう声が出なくなり耳鼻科を受診して薬をもらった。医師からは安静にするのが一番であると言われ、大人しく黙っていたら数日で回復した。
のどを痛めると気づくのは声を出して行うコミュニケーションのありがたみだ。会話を行う、という行為そのものもそうだが、むしろ感じるのはちょっとした指示ややり取りの中におけるコミュニケーションの重要性かもしれない。あれを取って、といった指示や挨拶、返事など何気ないやり取りができないことへのストレスは大きい。
今の仕事を始めてからも風邪をひくと決まってのどを痛めてしまう。おそらく発声方法にも問題があるのだろう。のどを使って声を張り上げているからだ。もっと腹から響かせるように発声すれば避けられるのかもしれないがなかなかに難しい。医師からは扁桃腺が腫れやすい体質で、切除することも考えた方が良いとも言われた。未だ決心はついていないが、その日は近いかもしれない。
教員のような仕事の場合、集団への指示などができないことは非常に不便だ。「後ろから前に回して」、「窓を開けて」といった指示は日常的に行うものだ。プライベートで言えば、買い物などで「レジ袋を下さい」という依頼などはその典型かもしれない。
普段はそうした何気ない言語コミュニケーションに関して深く考えることはない。というよりも気づかない。そうしたちょっとした発話、発声は意識して行っていないからだ。しかしそれが使えないとなるとその不便さを痛感してしまう。我々は思っている以上に言語コミュニケーションを行っているようだ。
言葉を発することのできない人の不便さは見えにくい。会話をできなければチャットなどのテキストベースでのコミュニケーションをとればよい、などと事情を知らない人間は考えがちだ。しかし現実における不便さはそうした長文のやりとりではなく、短い依頼や指示、返事などの日常に存在するのだ。
おそらく、様々な障害においても同様で、目に見えない小さな不便や苦労が存在しているのだろう。可視化、言語化されにくいそうした不便に関して、いかに想像力を働かせて配慮できるか。のどの不調はそうしたことに気づかされるきっかけなのかもしれない。