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子供の考えたデザインをエンブレムにする行為の根底にあるのはデザイン学の軽視
北九州市の夜間中学の事例
昨今はかつて学校に通えなかった高齢者だけでなく、在日外国人や不登校生徒なども対象とした学び直しの機会の確保を目的として夜間中学の設置が進んでいます。
九州では2022年に福岡市で福岡希望中学校が開校、2024年度には福岡県北九州市、大牟田市、佐賀県、熊本県、宮崎県宮崎市が設置を予定しています。
こうした公的機関の設置においてよく見られるのがロゴやエンブレムのデザインを公募するという事例です。
北九州市が設置を予定している「ひまわり中学校」でも同様に校章を中学生に公募し、その中から投票で選ばれたということです。
この手のニュースを聞くたびに、あるいは出来上がって作品を見るたびにモヤっとした感覚を抱いてしまいます。
デザインの良し悪し
今回のこのひまわりのデザインに関して私が個人的に批評するのは避けたいと思います。選出された生徒の実名も上がっていますし、何よりもその良し悪しを論ずるほどに私はデザインについて学んでいないからです。
そしてそれこそが引っかかるポイントでもあります。
公募を行う場合、広くデザイナーなども対象として行うのであればデザインの質も期待できるものになるでしょう。
しかし今回の北九州の事例のように、中学生を対象とした公募で優れたデザインを期待することができるでしょうか。
公金を使って何年も利用する可能性のあるロゴに、住民参加という美辞麗句で着飾ったアマチュアのデザインを張り付けることにどこまで妥当性があるのでしょう。(今回のものを指す意味はありません、あくまでも一般論です)
デザインというのは雰囲気やイメージだけで作ることができると思っている人は少なくありません。おそらく今回の役所の担当者もその仲間に名を連ねる人でしょう。
しかし実際にはデザインにはデザイン学やデザイン工学という学術的見地による論理的な良し悪しが存在します。
そしてそれをある程度は理解した上でデザインをしなければ、メッセージ性や意味を誤って伝えるものが出来かねないのです。
今回のような子供にデザインを公募する企画は数多存在しますが、そのどれもがデザインの価値や意味を軽視した行動に私には見えてしまいます。
デザインや紋章の背景にあるもの
校章はエンブレム、紋章でありその団体や組織のアイデンティティを意味する重要なモチーフです。
そもそもは中世欧州の貴族社会で氏族・団体・地方の紋章の意匠の考案や記述を行う文化が存在しました。
そしてそれを分析する「紋章学」なる学問も存在し、紋章は非常に重要な意味を持っています。
例えば上の模様はデザインの中で見られる「アヤメ」をチーフにしたものですが、この三枚の花弁は信頼、知恵、騎士道精神やキリスト教の聖三位一体を示すと言われています。
しかし文化的背景の無い日本人はこうした背景を無視して校章といった公的な場で利用する紋章を安易に公募してしまうようです。
この問題に関して日本的にいうなれば「我が家の家紋を公募で決めまーす」みたいなもの、と考えればその行為の軽率さが伝わるのではないでしょうか。
盗作の可能性
さらに問題なのは盗作の可能性と責任問題に関してです。
この手の話で昨今話題になったのは東京オリンピックです。
アートディレクターである佐野研二郎氏がデザインした案がベルギーのデザイナーから盗作の指摘を受けて利用の撤回という騒ぎになりました。
仮に盗作である(その意識がデザインをした本人に無いとしても)と指摘された場合、どういった対応をとるのでしょうか。
デザインをした当人が成人で責任ある立場であれば、法廷で争う、撤回する、賠償を支払うといった対応も可能ですが、子供にそうした責任を負わせることは不可能です。
今回の場合、美術教員が5点に絞った、とありますが彼らがあらゆる世界のデザインに精通しているわけではありません。
昨年6~9月に全市立中と特別支援学校に呼びかけた公募には10校から259点が応募。美術科教諭らが候補作品を5点に絞り、中学生に投票してもらい、辻川さんの作品が最優秀賞に選ばれた。
場合によっては盗作であるという批判を受ける可能性も存在します。今回の場合は公募自体も私は疑問ですが、そもそも誰の作品が選ばれたか、を公開することも避けるべきだったのではないでしょうか。
デザインの軽視
こうしたデザインの軽視の日本の風潮をみるにつけて思うのが、日本における芸術や音楽などいわゆる5教科以外の学びへの軽視です。
こうした社会風潮の原因には、私のような5教科、受験教科を担当する人間の見識の浅さ、受験教科への偏重教育があります。
実際、5教科の教員の中には実技教科を軽視する発言を公の場でする人も少なくありません。
また、実技教科における実技的な指導や実践に偏り過ぎた教育課程もまた問題です。もっと歴史や学問的理論に基づいた指導へと切り替える必要性もあるでしょう。
(これに関しては昨今は私の中高時代と比べると大分マシなようです)
デザインは思いつきで出来るものではなく、理論と知識に基づく経験知にインスピレーションが組み合わさって出来上がるものだという認識が広がることを願いたいところです。