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どうして日本人は「英語を話せない」のか

これまでの日本の英語教育を否定する文脈や、新しい4技能重視の教育方針が出るたびに、批判の根拠として見かける台詞があります。

中高6年間英語を習っていたのの話せません。

こういった言葉はリアルでもネット上でよく耳にします。

もちろん、中高の学習をそれほど熱心にしていない人ならばまだしも、それなりの学歴がある人がこうした言葉を口にします。

大学受験では英語を利用する試験を受けて大学に進学したような人や、理系で論文を英語の文献にあたって書いたような人が、です。

どうして彼らが英語を話せないのかについて考えたいと思います。

「英語を話せる」ラインのハードルが高い

まず考えられるのが「英語を話せる」という基準を自分たちで高めに設定していることがあげられます。

日本人の中での「英語を話せる」というラインは日常会話以上、業務的なやり取りを不自由なく話せるレベルを想定している人が多いようです。

あるいはTOEFL iBTで90点以上ぐらい、英検の1級程度でしょうか。こうしたラインで考えると確かにほとんどの日本人は英語を話すことができないでしょう。

しかし、外国人の「日本語を話せる」の基準はかなり低い印象を受けます。

私も留学生などと話をする機会がありますが、自称「日本語を話せる」外国人の多くは「てにをは」など助詞はかなり厳しく、単語の羅列で話す人を良く見ます。

彼らを「話せる」カテゴリーに入れてよいのかは難しいところですが、最低限の情報や意志のやり取りは可能であることを考えれば、「話せている」ことは間違いないと思います。

世界基準で考えれば「話せる」人たちが「話せない」と言っているのが、「話せない」人が多い原因の一つではないでしょうか。

英語を話す機会が少ない

加えて大きな原因と考えられるのが、英語を使う機会が極端に少ないことが考えられます。

大都市の国際的な取引のある企業ならばまだしも、地方と企業や公務員の場合、それほど英語を必要とする機会は多くありません。

また、プライベートな場でも英語で会話をする必要のある外国人と日常的に接する生活を送っている人はどれだけいるでしょうか。

そもそも、書物やコンテンツなどの邦訳のリリーススピードも早く、よほどでなければ英語を使わなければ困る状況は少ないのではないでしょうか。

百歩譲って、インプットを英語でする必要のある人はそれなりにいても、アウトプットで英語を利用する人となると、大都会以外ではかなり少ないでしょう。

英語で話しかける勇気がない

精神的な部分での日本人の悪癖として、英語で話しかける勇気がない、というのも考えられます。

英語を日常的に使用しない人にとって、英語スキルは使い慣れておらず自信がありません。

そうした自信の無さから外国人に声をかけるなど、英語を使うコミュニケーションから足を遠ざけることになっているでしょう。

自信の無いことを質問したり声を出して主張できない悪癖は、中等教育段階で頻繁に見られる現象でもあります。

「英語を話せる」と思い込んで行動する

偉そうに書いていますが、私自身さほど英語ができるわけではありません。

大学入試段階での英語の成績もよかったわけではありません。

ただ、大学時代には英語の専門書で学習していましたし、現在も英語のサイトや中華系の通販などで英語でのやり取りを行うため、文章でのコミュニケーションは可能です。

とはいえ、会話で日常的に英語を使うことはほとんどありません。

しかし、「英語を(多少)話せる」として、積極的に英語コミュニケーションを行うようにしています。

外国の方に声をかけられて何かを尋ねられた場合も、可能な限り英語でやりとりをするように心がけています。

実際のところ、英語ネイティブではない外国人の場合、彼らもそれほど英語が堪能というわけでもないため、むしろ話しやすい印象すら受けます。
(ドイツ系の方の英語は非常に聞き取りやすいように感じます)

既存の英語教育批判ではなく

何事でも同じですが、出来ないと決めつけて行動を躊躇するのではなく、行動することが上達に対して重要な要素です。

私は門外漢ながら、日本のこれまでの英語教育が良くなかった、と個人的には思っていません。

文章読解能力自体はついていますし、もしそれで英語力に不足を感じているのならばすぐに英語を勉強すればよいのです。

少なくとも義務教育段階までの知識があれば、いくらでも学び直しは可能です。

能動的に学習もせずに、口を開けて英語が話せるようになる種でも待っているのはあまりにも他力本願で無責任な態度です。

英語教育改革の荒波

新しい英語教育、特に小中の英語教育の接続と断崖の問題など、解決すべきことは山積みだと思います。

ただ、早期英語教育や英語遊びと揶揄される近年の英語教育改革に込められた哲学には、英語のハードルを下げ、機会を増やし、勇気を持たせる効果を期待したものとも思えるのです。

荒波の中、英語教育に関わる先生方におかれましては、数学のカリキュラム変更とは異なる次元の苦労の連続だと思いますが、どうかご自愛くださいませ。

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