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「宿題に関する調査」の結果に見る宿題の是非と、親の希望と教育的効果の現実

イー・ラーニング研究所の子どもを持つ保護者300名を対象とした、「2022年:子どもの日常的な宿題に関する調査」の結果が先日公開されました。

その中で特徴的なのは、保護者の7割が「宿題は必要」と考えていると回答したということです。

また、その内容について、最多回答だったのは「研究や調べもの」だったということです。

「2022年:子どもの日常的な宿題に関する調査」株式会社イー・ラーニング研究所

宿題は必要か

最初に宿題は必要かということについて考えてみます。

この問題は小、中、高と状況が異なるため、全く同じように考えることは難しいのですが、個人的には宿題自体は存在してよいのでは、と考えます。

近年は校種を問わず、授業の形式が変化していて、講義型から参加型に変化しています。

従来の講義形式の授業でもそうですが、参加型の授業であっても学校内の時間だけでは演習量を確保することが難しい状況です。

その時には分かったつもりになっても、覚えていないことも多く、その意味では家での復習は必要なものだとも言えます。

しかし、一方で学校で学ぶ内容を宿題として家庭での学習に課されているケースも多いようです。

音読の確認など、最近は保護者が確認をする課題が増えているようです。

こうした課題は専業主婦の家庭など、子供との時間が取れ、なおかつ親の学力が担保されている場合は効果が高いのに対し、共働き(大抵はそうでしょう)の上、学習に対して前向きでない保護者の家庭では効果がほとんどない状態になるでしょう。

義務教育である場合、家庭環境で露骨に差がつく宿題を出すことが許されるかどうか、疑問符が付きます。

自学可能な内容を宿題とすべき

そうした観点か考えると、宿題は自学を可能とする内容に抑えるべきでしょう。

例えば漢字の書き取りや計算練習などの反復課題や、学齢が上がった場合は解答を与えて自分で採点、解き直しまで可能なものとするべきです。

家で誰かの確認をしたり、質問をしないと解決しないものを宿題とすることは教育効果が非常に低い課題です。

そうした課題は学校内で完結し、家庭ではその定着に時間を使うべきでしょう。

では分量に関してはどうでしょうか。

これにも近年は増加傾向にあり、批判が上がっているようで、小学生でも1時間はかかるような無意味な量を出しているケースもあるようです。

高校生であっても、自称進学校と呼ばれる学校ではまともにやると1教科で2時間近くかかる課題を出すことがあるようです。

家庭での学習は自主的な活動であるべきであり、課題によって時間を奪われてしまい、主体的な学習時間を失うことは本末転倒でしょう。

「研究や調べもの」を宿題とすることは可能か

次に、保護者からの要望の多いと言われる「研究や調べもの」に関する宿題について考えます。

この内容は、個人の能力に極めて依存しやすいものであり、おそらくほとんどの小学生は自発的な取り組みをすることは不可能です。

もちろん、自分の好きなことを羅列するというだけならば可能ですが、そこに学習意義や効果を付加するとなると、個別的な指導無しに成立するわけがありません。

これは中学生や高校生であっても大半の場合が同様です。

しかも、これには大量の時間とマネジメント能力を必要とするため現実的な宿題として機能するとは到底思えません。

そもそも、「研究や調べもの」と言われる分野は大学生が卒業時に、ゼミなどで指導者の下について進めて初めて形になるものです。

それをスケールダウンして、小学生なりのものを作るにしても親の学力が相当なレベルで求められます。

最低でも大学で論文作成をした知識は必要と考えると、日本の半数の家庭はこうした課題に対応できないでしょう。

さらに言えば、時間を大量に要するため、現実的な宿題としては機能しないのが目に見えています。

個人的には前出のグラフの親が意味がある、と考える宿題うち、「音読」、「復習ノート作り」、「予習」、「研究や調べもの」、「工作」は従来型の宿題として出すだけでは実行そのものが難しく、学習効果が低いものばかりのように感じます。

ICTを活用することで、例えば「音読」などは録音してオンラインで提出すれば宿題としては実行は可能です。

また、「予習」に関しても動画授業の視聴であれば時間的な制約を除けば効果を期待できるとは思いますが、あくまでも限定的な改善でしかないように思います。

親の希望するような教育は、単語やドリルの先にしかない

最近の教育の動き、主体的な学習の隆盛や、個人起業家が増えている社会の動きを見て、これまでの知識の積み重ねや読み書き計算を軽んじる風潮があるようです。

ところが、そうしたことを煽るインフルエンサーや学識者の多くは一般的なレベルのことは「できる前提」で話をしています。

彼らのできなくてもいいレベル=一般人のかなりできるレベル、という事実は悪意なく気づいていないケースもあれば、わかった上で触れていないケースもあります。

もちろん、学校の授業における取り組み方や授業形式、対話型の授業は増えています。

しかし、その中で基礎知識や語彙の無い生徒は「わかったふり」をして過ごして時間を浪費しているだけなのです。
(そして本人はそのことに気づかずに、学びを深めた気になっている)

家庭での学習、一斉に出される宿題は、親の期待するような「研究や調べもの」ではなく、地味で退屈なやり直しと定着のための復習が最も教育効果が高いというのが残念な現実なのではないでしょうか。

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