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脈拍で集中度を測る仕組みは実験としては面白いが、現実にはディストピアでしかない
脈拍で生徒の集中度を測定し、授業のどの場面で生徒が集中しているのかを調査する試みがニュースに上がっていました。
授業中の集中具合
生徒の集中具合に関しては、授業経験を積んだりそのクラスでの授業回数が増えればなんとなくつかめるようにはなってきます。
とはいえ、特定の生徒が集中具合がどの場面や活動で高まるかということはブラックボックスだったわけです。
今回の試みはそうした個人レベルの細かな経過時間における集中度を測定することが可能であり、授業改善の手段として有益であることは間違いないでしょう。
特に教育業界では授業手法や教育技術に関して定量的な評価を行うことが少なく、また個人の授業スキルや生徒との関係性によって効果測定が難しいと言われてきました。
さらにテストによる評価も対象生徒の学力や意欲によって変化するため、比較計量が困難となっていました。
ところが今回の技術を上手く活用すれば、授業手法や瞬間的な効果的指導を判別することが可能になり、教育技術の底上げに寄与するでしょう。
生徒の監視用システムとして使う可能性
こうした正の側面が強調される一方で負の側面も存在します。
それは生徒を監視するシステムとして利用可能であるということです。
これまでは授業中に集中している、真面目に取り組んでいる「ふり」をしていればとりあえずは評価をされていたものが、このシステムによって本当に集中しているのか、「ふり」なのかを白日の下に晒されるということになるでしょう。
教員目線で考えている人の中にはそれを好意的に受け止める人もいるでしょう。
確かに生徒は授業中に集中して取り組む、という義務を課されています。授業は集中して聞き、前向きに活動するというのは授業を受ける上で前提となる姿勢です。
しかし、一方で彼らには内心の自由も認められています。授業中にいかなることを考えていたとしても、表面上観測された取り組みと試験の結果で評価されなければ、教育の評価で個人の内心の部分に手を突っ込む行為となりかねません。
しかし、これは明らかにゲシュタポ的な思想強制であり、法治国家の教育機関で行うべきものではないでしょう。
あくまでも研究用、測定用の部分的利用に留めるべき
そもそも脈拍だけで集中が読み取れたとしても、集中の程度と理解度は必ずしも一致していません。
一人の生徒は集中しているがなかなか頭に入らず理解が遅れているかもしれませんし、別の生徒は集中しなくても理解できるぐらいの内容だと考えていることもあります。
記事内においても生徒の評価に用いるものではない、と教育委員会は主張しています。
しかし、モニタリング行為そのものが生徒を委縮させたりする可能性も考えられますし、これを授業中の生徒管理に利用すべきという主張は当然のように出てくるでしょう。
従って、この測定に関してはあくまでも学術的な利用に留めるべきということを文科省などの関係省庁はアナウンスすべきでしょう。
こうした議論をせずに集中力測定が学校教育において市民権を得た場合、あなたのオフィスで測定が始まるというディストピア化もあり得る話ということを忘れてはならないでしょう。