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共通テスト後の進路指導と志望校決定アドバイスの私の鉄則、そして進路指導の面白さ


共通テスト後の動き

先日、1月14日の日曜日に共通テストが終了しました。

国公立大学の受験希望者はこの結果を見ながら自分の出願先を決定することになります。

私の高校時代は各予備校から配られた帳票に点数と志望校を記入すると、数日後にその判定がA~Eの段階で戻ってくるという仕組みでした。

現代においてもその仕組みは残っていますが、それに加えてオンラインですぐに判定を確認できるシステムが何年か前から整備されました。

そのため、帳票に書いていない学校であっても判定を見ることは可能になっており、生徒の出願先を決める情報はかつてよりも莫大に増加しています。

情報の増加は飽和でもある

かつてはそうした判定の情報を予備校や一部の学校関係者が独占していたため、生徒側はそうした機関に相談せざるを得ない状況であり、自分で判断する情報は持っていませんでした。

ところが現代においては自分でかなりの部分の情報を取得することができるようになりました。

これにより一見すると予備校や学校の指導やアドバイスの価値が相対的に低下したようにも見えます。

しかし、実際にはそれとは逆の現象が発生しました。

ネット上の情報その量が膨大であり飽和状態になることから、個人で処理をすることが難しくなってしまったのです。

その情報には真偽、ソース不明のものも多く、判定情報だけで決断をするための経験則的な判断基準が不足するようになりました。

結果として、信頼できるアドバイザーの存在は不可欠となりました。

つまり当初の予想とは逆に、予備校や学校のチューターや担任の存在意義はむしろ向上したと言えます。

教員へのプレッシャー

一方で予備校のチューターや私のような私学の教員には予備校や学校から上位大学に進学をさせろ、という半ばノルマのようなものが課されています。

国立大学や旧帝大の合格者数に関してはそれなりのプレッシャーを感じるのは事実です。東京大学や医学部への進学者に関しては学校全体から期待もあります。(実際に給与にまで反映されるところはそこまで多くないようですが、上司からの圧力は間違いなく存在します)

私立の場合は翌々年度(翌年度の入学者は決定している)の自校の受験者数に影響があることもあり、長期的には学校の存続に関わる問題にもなります。

では公立の高校はそうしたものは無いのか、というとそうではないようです。公立高校に勤務する知人に聞く限りでは公立の地元国立の合格者へのプレッシャーはかなり存在しているということです。

進学指導の基本方針

私は基本的にこちら(学校や予備校)の意図に誘導するような指導をすることはありません。

ただ、生徒の望むものと学校側の期待するものに関して折り合いの付く選択を提示できるようには心がけています。

したがってあくまでも本人の希望を第1優先にしながら受験可能、合格可能な志望校の選定をサポートします。

そうした進路指導の中で、原則としては以下の基準を指導方針としています。

  1. チャレンジ賛成、無謀に反対

  2. 前期安全or後期滑り止め確保

  3. 浪人は必ず合格を蹴ってから

  4. 妥協も人生の経験

1.チャレンジ賛成、無謀に反対

チャレンジの定義は状況によって異なりますが、総得点の5%未満のマイナスであればC、D判定であってもむしろチャレンジを推奨しています。

しかし5%を超える場合、特に10%以上のマイナスに関しては逆に絶対的に反対します。2次試験は同学力層が集中する試験であり、その中で10%以上の逆転は現実的にはかなり無謀であり、絶対的に不合格になるものに挑戦する意味は無いでしょう。

2.前期安全or後期滑り止め確保

これは生徒の精神状態や性格気質にもよりますが、気弱であったりプレッシャーに弱いタイプの場合は前期で安全圏の受験を勧めます。またチャレンジをする生徒にも必ず後期の滑り止めを確保することを約束させています。

結果的にすべて不合格になる場合は仕方ありませんが(そうならないような出願をするのが前提ですが)、基本的には最後の段階で人生の選択を自分でできる状況に持ち込むことが何よりも重要な経験だと考えています。

高校生がそれまでの人生の中で最も大きな、そして最初の自己決定こそがこの大学受験ではないか、と思うからです。

3.浪人は必ず合格を蹴ってから

2に繋がる話になりますが、自分の人生の決定だからこそ浪人という可能性に関しても必ず本人の選択の結果、という形だけは可能な限り取りたいというのが基本にあります。

第2志望の合格先に進学するか、不確かな1年間を費やしてまで第1志望を貫くかは自身の責任において選ぶべきでしょう。

4.妥協も人生の経験

残念ながら人生の選択における多くは自分の望むものではなく、状況における最適解を選択するものでしかありません。

行きたい大学に必ずしも通えるわけではないし、むしろ通えないときに自分とどう向き合うか、ということが重要だというのが私の考え方の根本にあります。

経済的、学力的にどうにもならないことはありますし、今後もそうした局面は人生の中で何度も現れるでしょう。

大学入試という大きな局面で妥協を経験することは、決して悪いことではないでしょう。

進路指導者は幅広い視野を持つ必要がある

私立学校の担任をしていると「○人は国立大学に合格させてほしい」
、「○大学に合格者を出してほしい」という周囲や上からの圧力は少なからず感じます。

しかしそうした圧力に負けて、上意下達をしてしまえば生徒に学校のエゴ、そして評価を受けたいという自分のエゴを押し付けるだけになってしまうでしょう。そこには教育者としての矜持は存在しません。

もちろん、学校側の意図も理解はできますしその希望の多くは大人の論理であるものの、必ずしも生徒本人の幸福と遠いわけではないのも事実です。
(旧帝大、早慶に行け、という考えは月並みではああるものの決して間違いとは言えない)

一方で生徒本人の希望こそが最も重要ではあるものの、周囲の圧力と相反する意見であることもあるでしょう。(そして生徒の意見が若者の見識の浅さから来るものであるケースも少なくないのです)

さらに保護者の意図や考えもここに絡んできて、進路決定は三つ巴の様相を呈することになります。

進路指導者の仕事はその三方の意図や目的をうまくまとめ、三方が納得する方向へ導くことです。

この時期に毎年感じるのが、進路指導者に求められるのは幅広い視野を持つことである、ということです。

大学や職業、社会の変化や今後の動きに敏感になりつつ、現時点での世代間の認識の差異を理解しながら着地点を見定めるというのは決して簡単なことではありません。

教員の仕事の中で教科指導を魅力と答える方は決して少なくありませんし、それにはもちろん同意します。

しかしそれと同じくらい進路指導には面白みがあるとも私は思うのです。

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