学校行事は失敗こそが高い教育効果を生む
学校行事の中止や縮小
ここ数年、日本中の学校で行事が中止、規模縮小していました。
このことに関しては私の様に無駄な行事が減って学校のすべきことが精選された、という感想を抱く人もいれば、生徒の多様な経験の場が失われたと感じた人もいるでしょう。
今年度からは、徐々に再開への方向に動いている学校も多いようで、行事を望んでいた人にとっては朗報かもしれません。
ところで、多くの学校ではこの数年の縮小の動きの中で行事の準備を十分に出来ずに本番に臨むことも多かったはずでしょう。
私の勤務校も同様でしたが、自身がその中で感じたことをまとめたいと思います。
行事に向けての準備
体育祭や文化祭、あるいはそれ以外の学校行事においても、当然ながら生徒たちは役員や係を分担し、熱心に準備に取り組みます。
ここに関しては実はコロナ禍とそれ以前でそこまで大きく変化はしていないように思います。
しかし、大きく変化した、あるいは時間や人員の都合で準備が不十分になった場所があります。
それは教員側の準備です。
行事に向けての教員の過剰な準備
以前から感じていたことですが、学校教員は行事に関して、過剰なほどに準備を万端にする傾向が見られます。
安全面に関しての準備は過剰ということはありませんが、それだけではなく成功に関しての準備にコストをかける傾向が見られるということです。
もちろん、学校教員という職業に就く人の多くが学校文化の適者生存の結果であり、継承者であるため、行事に関しての成功に拘る傾向があるのは必然かもしれません。
しかしそれだけが理由ではないように思います。
それは行事の成功と学校や教員の実力や責任と捉える考え方の存在です。
管理職からの評価
学校行事、特に体育祭などの大きなイベントにおいては学校に来賓を呼ぶケースが多いでしょう。
そうした来賓には地域の顔役や同窓会の会長など地域社会の影響力を持つ人物も含まれます。
外部からの評価は学校の信頼度に影響を与えますし、必然的に管理職も可能な限り外部評価を高める方向に志向します。
その結果、行事の成功を現場に要求する圧力は高まり、現場の教員は必ず成功する行事となるように準備を行います。
保護者からの期待
管理職からだけでなく、保護者の圧力も存在します。
どうやら学校行事の多くを「わが子の活躍する場面を見る場」と認識している保護者が相当数存在するようです。
その結果、行事の場面場面でそれぞれの生徒の活躍する場面を設定し、そして最後は全員の協力による華々しい成功という茶番劇しか求められなくなりました。
当然その期待に応えるために教員は準備を入念に行うでしょう。
奪われた貴重な「失敗」経験
成功への圧力が必要以上に高まることは、仮に生徒の成長が損なわれるほど過剰な干渉であったとしても、成功のための干渉を誘発します。
結果、過剰な準備により生徒は行事の失敗(不成功)という貴重な反省経験を積まずに成長をしていくことになります。
教員という黒子によって「演出された成功」結果を自身の力によるものだと勘違いし、「準備が不十分であれば成功しない」というシンプルな事実を経験しないのです。
そうして「演出された成功」を自分の成功体験として誤認した若者に対し、社会は唐突に「準備が不十分であれば成功しない」という事実を突きつけるのです。
入試制度や指導要領よりも優先して改革すべきこと
近年「思考力」を伸ばすということに関してあの手この手で教育改革が行われています。
共通テストや新指導要領にも根底にはその哲学が存在します。
それぞれの改革の手段や時期、具体的な変更部分に関しては賛否はありますが、その目的や精神、問題意識は共感できるのも事実です。
しかし、それよりも優先すべきは行事の過剰準備、あたかも子供の進路にある石を取り除くような行為や教員の意識を改革すべきではないでしょうか。
生徒達の「思考力」を奪っている一番の原因こそが過剰な干渉であり、行事における「演出された成功」ではないかと思うのです。