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【題未定】だから今日も返ってこないあいさつを口にする:あいさつを返さない時代【エッセイ】
あいさつしない、返さない生徒が少なくない。こうした書き出しを見ると「最近の若者は」という構文を予想する人もいるだろうが、そうではない。確かに昨今、私の勤務校だけでなく他校を訪れた場合もあいさつをしない、より正確には「こちらからあいさつをしても返さない」生徒は増えたように感じている。あくまでも体感ではあるが、周囲の人間の話を聞く限りではこの感覚は決して間違ってはいないだろうと思う。
昔からあいさつができない生徒は存在した。自ら率先してしなくとも、あいさつをされたら返すという習慣は定着していたように感じる。ところが昨今はあいさつを返さないという生徒が多いようだ。これらの原因を考察してみたいと思う。
まず第一にかつては学校という組織内に強制的に彼らにあいさつをさせる仕組み存在していた。教員にあいさつをしなければ指導をされたし、場合によってはげんこつをもらうぐらいのことは昭和時代には存在した。部活動の先輩からは殴られ、顧問からは制裁を受けるということもしばしばあっただろう。コンプライアンス意識の低かった時代においてはそうしたあいさつへの強制力が現実に存在したのだ。ところが現代において、それらの強制力が失われてしまった。このことが関連するのは間違いないだろう。
次にあいさつ習慣が家庭で失われたことが考えられる。現代の高校生の家庭は共働き世帯がほとんどで、下手すると親と朝から顔を合わせないような生徒も少なくない。もちろん小さいころは無理やりさせられていたあいさつという習慣が小中高と親と顔を合わせない生活とともに抜け落ちたとしても不思議はないだろう。
加えて、昨今の社会では治安が悪化したと感じられる空気感も、あいさつの減少に影響を与えている可能性がある。かつては知らない大人とすれ違う際にも自然にあいさつを交わしていたが、今は都市部ではそれが不審者扱いにつながるという話も聞かれる。実際に治安がそこまで悪化したわけではないものの、「知らない人とは話さない」という家庭教育と相まって、子どもたちのあいさつ習慣が失われているのだろう。
さらにあいさつに関しては目上の人間への敬意という概念が薄くなったことも関係している。現代社会は民主化、平等化した世界であり、年齢の上下を敬意の理由として考えない社会となった。老人は尊敬すべき先人ではなく、老い衰え口うるさい一言居士でしかなくなったのだ。敬意を抱いていない相手にあいさつをしない自由が認められるぐらいには世界はフラットになったということだ。
極論を言えばあいさつをするか、しないかは本人の自由である。しかし彼らがそれで許されるのはせいぜい学生時代までだ。あいさつをしなくてもまともに社員として受け入れられる企業は日本にそう多くはないだろう。
意外にも外資系、欧米人の多い企業はあいさつが頻繁であるという話を聞く。例えば、アメリカの企業文化では出勤時の"Good morning"が欠かせないとされており、あいさつの省略は非協力的な態度とみなされることがある。彼らは言語コミュニケーションを日本人以上に好む傾向があること考えれば必然だろう。したがって国内だけでなく、外資系や海外企業など、どんな職場に勤務をしてもあいさつを強制されることになるのだ。
まして起業家などの独立した経営者ならばなおさらその傾向は強い。まともにあいさつできない人間と仕事の話は難しいだろう。よほどの特殊な才能に恵まれれば例外だが、大半の人間は特別な能力も稀有な才能も持ち合わせてはいないのが現実なのだ。
とはいえそれを指導することは非常に難しい。授業中のことならまだしも、それ以外の時間の生徒の動向など知る由もない。また言って行動が変容するようなものでもないだろう。
それでも身近な、担任のクラスや授業で関わりのある生徒にはあいさつをするように話をしている。コミュニケーションの取れる相手に対してからのそうした声掛けは彼らも受け入れやすいようだ。それ以外にできることといえば、自ら意識的にあいさつをすること、そして返ってこなくても気にしないように心がけることぐらいだろう。
だから今日も返ってこないあいさつを口にする。あいさつを返さない相手の中の一人だけでも、彼らが5年後、10年後にあいさつをすることの意味に気づければ、と願うのだ。