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「黙食」批判についての雑感

コロナへの対応が変化しつつあります。

全数届け出の見直しが始まり、全国旅行支援事業なども始まっています。

当然ながら、学校でのコロナの扱いも変化しています。

そんな中で「黙食」に対する批判の声が多く上がっているようです。

三浦瑠麗氏は「黙食」で鬱や疎外感が広まる、とTweetしているようです。

社会全体の雰囲気の変化

確かに、コロナに対する雰囲気は変わりつつあるようです。

会食などをする場面を見かける機会も増えましたし、濃厚接触者の解除も5日間、検査キットでの陰性確認ならば2、3日でもよいようです。

マスク着用に関しても、会話なしの屋外では原則着用する必要はない、と変わっています。

社会全体としては、ある程度受け入れる方向で舵を切った形になるでしょう。

しかし、コロナに感染した場合、高熱や呼吸器障害、場合によって命の危険があることには変わりありません。
(それがインフルエンザ等とどの程度差があるのかは不明ですが)

症状悪化や後遺症などもある以上、感染に関しては十分に気を付けなければならないのは間違いないでしょう。

「黙食」の文化は存在しないのか

三浦氏の言葉で引っかかるのは

「黙食などという文化はこれまでの日本にはありませんでした」

という部分です。

これは本当にそうでしょうか。

現在、41歳の私の幼少期を考えると、黙食と強く注意されたことはそれほどはありませんでしたが、食事中に会話をすることがマナー違反のように言われていたこともあるように感じます。

静岡県にある三島市郷土資料館のちゃぶ台に関する記事ですが、銘々膳から食卓を囲む形に変化したため、食事中の会話が許されるようになったという考察です。

また、以下の引用は京都女子大学発達教育学部教育学科教授の表真美氏が宮城学院女子大学での講演会報告からのものです。

1991年に調査をした対象者は、過渡期で箱膳ライフ、ちゃぶ台ライフ、テーブルライフの3つを経験した世代でした。それぞれの期間で躾はどうだったか、食事中の会話だけでなく調査している。(中略)箱膳の時は会話は「厳禁」されていた。テーブルになると「話しても良い」となりました。「楽しく話せ」ではなく「話しても良い」です。「話しても良い」はちゃぶ台だと40%弱。食卓形式の移り変わりですが、ちゃぶ台からテーブルに移行したのは戦後です。食卓での団らんが普及したのは戦後になってからです。
(中略)
これは明治中期の修身教科書の挿絵です(図1)。修身というのは戦前の道徳的教育を教える学校教科です。修身の1年生の教科書は全て挿絵で、これは「謹慎」という徳目を教える挿絵です。(中略)謹慎は今と少し意味が違うと思いますが、慎み深く感謝して行儀よく食べなさいと教育するために家族の食事が使われている。やはり楽しく食事をするというのはこの絵からは判断できない。

食と団らん 歴史をふりかえり、今後を考える - 宮城学院女子大学

また、禅僧は今でも黙食を行っています。

以上のことからも、「黙食」という文化自体は日本ではかなり前から存在し、仏教文化や道徳的な観点から推奨されてきたことがわかります。

キリスト教の影響と戦後のアメリカ文化の流入

欧米人は食事の際に会話ができるように躾けられると聞いたことがあります。

どうやら彼らの文化では、食事中に適度に会話をするのがマナーのようです。そうした点を踏まえて、先ほどの表氏の講演には以下のようにあります。

巖本善治という人は、明治女学校を作ったり女学雑誌を創刊したりした人で、プロテスタントキリスト教の思想を持つ啓蒙思想家です。この巖本善治が一番初めに、食卓での家族団らんをすべきだと言った人だということがわかりました。巖本善治による雑誌『通信女学講義録』、学校に行けない人にその本を読んで勉強してもらうという本ですが、そこに食卓での家族団らんの初めての推奨がみられます。団らんということを言った人はその前にもいるのですが、食卓で食べながら団らんしたほうが良いと初めて言ったのは、巖本善治ではないかというのが私の研究の成果です。当時のキリスト教を
思想の源流にもつ家庭啓蒙雑誌の中で醸成されて広まっていったとわかりました。

食と団らん 歴史をふりかえり、今後を考える - 宮城学院女子大学

銘々膳からちゃぶ台、テーブルでの食事という生活様式の変化や、欧米からの影響など複数の要因で食事中の会話という文化が浸透したのは間違いないようです。

「黙食」は決して悪い文化ではない

私はこの記事を書くことで「黙食」反対派の人たちを否定や説得したいわけでもなければ、感染症の拡大を危惧して協力すべきと警鐘を鳴らしているわけでもありません。

ただ、「黙食」という行為のそのものがそれほど悪いものなのでしょうか、と言いたいだけなのです。

コロナによって、「黙食」に対して悪イメージがつきました。

食事中に会話をさせてもらえない、文化的な食事ではない、というような印象を受ける人は多いでしょう。

しかし、食事中に一人静かに味わう。しっかりと味を確認し、素材の思わぬ旨味に気づいたり、香りや食感の豊かさを堪能する時間は文化的ではないのでしょうか。

その日あったことを反芻したり、思い直したりする時間は決して窮屈なものではなく、充実した一人の時間でもあるのです。

私自身、食事中に会話をするのはそれほど好きではないこともあるでしょう。

話すならば、食後やお茶をしながら、という意識があります。

高校勤務である私は給食もないため、昼食は職員室のデスクでとることがほとんどです。

正直、そのときに誰かと話をしたいということはなく、静かに一人で食べたい気持ちがあります。

あたかも全ての子供たちが会話をして食事したいと思っているような論調はいかがなものでしょうか。

それが多数派だとしても、それが例外なく全てで「黙食」が悪、という考え方はあまりに狭量なのではないかと思うのです。

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