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先輩が後輩を「指導」する文化に関する雑感
子供の運動会
先日、子供の運動会を参観しました。
小学校らしい、と言えばよいのか先生方がしっかりとベースラインを計画し、その中で児童の活動が生き生きとした良い運動会でした。
一方で、いわゆる「伝統」的な風習を見かけて懐かしい気持ちになったのも半面、時代錯誤を感じた瞬間があったのも事実です。
その中の一つが応援団や応援合戦、それに解団式のパフォーマンスなどです。
生徒自治という考え方
私が子供の頃を振り返っても、運動会などの活動において、先輩と称する人たちが自分たちに高圧的に活動に関わる指導をしていたことが記憶に存在します。
そうした活動の典型的な例が、運動会や体育祭におけるパフォーマンスの指導です。
小学校でもそうですが、中学校や高校では「校歌斉唱」や「挨拶」などのマナー的なものも「生徒会」を自称する集団や「応援団」と称する半ばならず者の集団がそうした指導実務を行っていた記憶があります。
また、部活動ではそうした「先輩」から「後輩」への指導、というのは習慣的に行われており、生徒自治の観点から推奨されてさえいるものでしょう。(私自身は部活動からそうした空気を忌避していたため、直接的な被害を受けたことは少ないのですが)
そうした「生徒自治」という上級生に下級生を投げ渡す文化がこれまで日本社会に与えてきた影響は決して少なくないでしょう。
企業内の人材育成などにおいてもそれをフォーマットとしているものは少なくありません。
しかしこの制度にも欠点が存在します。
肥大化しやすい「支配欲」
誰かを支配したい、という「支配欲」に囚われやすいのは人間の性です。
まして法律で縛れているわけでもなく、精神的に未熟な存在でもある子供たちは言うまでも無いでしょう。
そしてそうした「支配欲」が肥大し、悪影響を及ぼしたのがこの事件かもしれません。
この事件の詳細を私は知りませんし、個々の暴力事件の容疑者を擁護するつもりは一切ありません。
とはいえ、この事件の背景には、あたかも先輩と称する年長者たちに後輩たちの生殺与奪の権を与えているかのような勘違い、誤解をさせる学校文化の慣習の存在は否定できないでしょう。
そうした慣習の下で「支配欲」が肥大化するのはある種必然でしょう。
スタンフォード監獄実験を映画化した『es』はその有名な例の一つでしょう。
生徒自治は否定しないが…
私自身、生徒自治を否定するつもりは毛頭ありませんし、むしろある程度生徒に選択権や決定権をゆだねるべきというスタンスです。
しかし生徒同士の懲戒権(自発的、不文律的)を認めるべきではありませんし、先輩後輩による上下関係による縛りは極力排除すべきだと考えています。
これには私が部活動文化、年齢上下関係の文化に馴染めず、爪弾きになった人間であるということからの偏見も存在します。
しかし、それだけでなくこの文化が新卒一括採用や大学入学年次の固定化につながり、社会の流動性を下げているのではないか、という意識もあるからです。
今回の痛ましい事件が個別のトラブルとして処理されるのではなく、全国的に広がっている体育会系的上下関係文化に警鐘を鳴らすきっかけになればよいと期待したいところです。