幼なじみがトップリーグで指揮を執った日
明日、40歳になります。今日が30代最後の日です。
30代のうちにもうひとつ、新しいことを始めるなら・・・
「そうだ、登録だけして放置していたnoteを書き始めてみよう!」
そう思い立って、今PCに向かっています。
noteを始めるなら最初の記事はこれにする、と決めていたのがタイトルのとおり、幼なじみがフットサルのトップリーグ「Fリーグ」で指揮を執った日のこと。
私の幼なじみの小宮山友祐は、フットサル日本代表のキャプテンの経験もある競技フットサルの選手で、引退後は長年選手として所属していたバルドラール浦安でコーチを務めています。そして私は、小学校1年生からの友人であり、現在はマネジメントも担当しています。お互いの兄も同級生で一緒にサッカーをしていたこともあり、かれこれ35年ほどのおつき合い。入学式も、修学旅行も、同じ集合写真に納まっています(キャンプの写真はスク水だったので自粛)。2人とも、ちっとも楽しくなさそうだ・・・
同じ小学校で6年間を過ごした私たちでしたが、中学校の学区が違ったこと、幼少期から引っ越しの多かった私が中学時代にまた引っ越しをしたことで、その後は没交渉に。携帯電話もSNSもない、ポケベルすら持っていない時代ですからね。
一度だけ、高校時代の彼を見かけたことがありますが、怖くて声をかけられませんでした。
だって、ガタイが、よくなってる!!!
現役時代には、プロレスラーだ、ガットゥーゾだ、太ももが太い、お尻がでかい、と言われ、気合いの入った守備を見せていた彼ですが、小学校時代は小柄で足が速くてすばしっこいイメージだったので、驚きのあまり「あれ、こみ(小宮山なのであだ名は「こみ」)だよね・・・あ、でもなんか怖くなってる・・・」と物陰から見送りました。
それからもサークルで一緒だった友達が彼と同じ高校だったり、兄から「〇〇(小宮山兄)の弟って覚えてる?日本代表に選ばれたらしいよ!」と言われたり、名前を耳にすることはあったし、Fリーグが開幕してからはリーグ戦や代表戦を「友達が出てる~」とこっそり見に行ったこともありました。なぜこっそりかと言うと、本当は見に行くことを伝えたくてブログにメッセージを送ったんだけど、スルーされたから。当時の私は芸名で仕事をしていたので、「誰こいつ?」と思って無視をした・・・かどうかは聞いていないので分かりません。
それからさらに数年が経った2011年。そのころの私は、イベント会社を立ち上げて数年が経ち、友人知人から依頼されたマネジメントにも携わっていました。マネジメントをしていた中の1人、元Jリーガーの方と動画コンテンツを作っていて、小宮山との対談企画が持ち上がり、コンタクトを取ったのが確か7月。そして、再会を果たしました。こちらは勝手にプレーする姿を見ていたけど、マトモに話すのはおよそ20年ぶり。でも旧友というのは不思議なもので、何一つ違和感なく思い出話に花が咲き、とんとん拍子に話が進んで対談を終えました。
さらに時が経ち、2012年のFIFAフットサルW杯。三浦知良選手がフットサル日本代表に選出された、あのW杯です。小宮山は木暮賢一郎さんと共にキャプテンを務めていました。開催国であるタイに旅立つ前に、壮行会ができないか、と提案しましたが、スケジュール的に難しく実現には至りませんでした。ただ、その時に「やっぱりカズさんの注目度はすごい。キャプテンである自分にも取材の申し込みをいただくけど、自分1人で対応するのが大変だ」という話を聞きました。
「スケジュールの調整や原稿の確認なら、得意分野だよ!」
これが、私が小宮山のマネジメントを担当することになったきっかけ。そしてフットサル沼へと引きずり込まれていきました。
もう少し早い段階でこの話ができていたら、もっとプロモーションに力を入れられたと思うけど、それでも片っ端から繋がりのあるメディアさんに声をかけ取材や出演を取りつけ、同級生に声をかけて日の丸にメッセージをもらい、タイにも行きました。これがそのときの写真。
キャプテン翼の作者・高橋陽一先生が表紙を担当されていた雑誌『フットサルナビ』で、小宮山が表紙になったときは興奮したなあ・・・岬くんが初恋だったから。書店で働く同級生が、その『ナビ』を「地元出身選手が表紙ってポップ出して山積みにしてもらう!」と動いてくれたときも、本当にうれしかった。余談ですが、久しぶりに小宮山を見た同級生はみんな「え?ごつくない?細かったよね?本当に本人???」という反応でした。
フットサル日本代表が史上初のベスト16という成績を収め帰国した後は、W杯前後でメディア出演数が一番増えた選手、として紹介もされ、のちにマネジメントを担当する皆本晃との出逢いにつながっていきます(が、この話はまた別の機会に)。
そして、マネジメントを始めてから8シーズン目の2019年5月26日。幼なじみの小宮山が、フットサルのトップリーグで指揮を執りました。監督の体調不良による代行という喜べる理由ではなかったので、複雑な気持ちではありました。でも、親にスーツを着せられて出た、自分たちの記憶にあるかどうかも定かではない小学校の入学式で出逢った友人が、今度は自分の意思でスーツを着て立派に監督を務めている・・・。
小学校の卒業を控えた冬。その日の体育の授業はサッカーでした。私は小宮山と同じチームにいて、私たちのチームは1点差で負けていました。試合終了間際、小宮山が放ったシュートはゴールラインを割っていないと判断され、ノーゴール。そして私たちのチームは負けました。たかが体育の授業。私のようなど素人も出ている試合で、それなのに負けた小宮山は泣いていた。
「この人、なんて負けず嫌いなんだろう・・・」
それが私の中での小宮山友祐でした。再会したときにこの話をしたら本人はまったく覚えていなかったけど、私にとっては強烈な記憶です。だって青春漫画みたいでしょ? だから、没交渉の時代に日本代表に選ばれたと聞いても「昔から負けず嫌いだったもんな」ってあまり驚かなかったほどです。
マネジメントを始めた当初は、フットサル選手のマネジメントということ、女性であることが珍しかったのか、「元カノ」「愛人」とさんざん言われ、仕事で試合を見に行って同じ会場にいるにも関わらず挨拶もせずに帰ったことが度々あったし、真剣に意見をぶつけ合って、帰ってから1人で泣いたこともありました。衝突した翌日にテレビ局でフットサル選手をプレゼンする機会があり、その日はメンタルがボロボロだったのでまったくうまくいきませんでした。
フットサル選手の売り出し方なんて分からない。競技経験もなく、ライセンスも持っていない。周りのメディアや関係者の方々に比べ、知識がないことがコンプレックスだったので、とにかく試合を見に行きました。小宮山のチームではない試合でも。小宮山だけを、浦安だけを、FIXO(小宮山のポジション)だけを知っていても、話は広がらない。他にどんなチームがあって、どういう選手がいて、その中で小宮山はどういった役割の選手なのか、それを知ることから始めよう、と。
マネジメントを始めた数年後には、共同経営者が金銭トラブルを起こしたので、役員を退任しフリーになることを決めました。そのときに相談し、手を差し伸べてくれたのが今も小宮山と皆本を預けている株式会社アレナトーレ。フットサルをもっと広めていけるように、と私個人をサポートしてくださった企業の方や、元々はフットサルメディアにいて、自分は辞めてしまったけどFリーグを応援している、と数々の相談に乗ってくれた先輩。「フットサルのことは分からないけど、それだけ真剣に取り組んでいるんだから少しでも露出の機会ができたらいいなと思って」とテレビ番組(CX「nakedEve」)に他薦してくれた親友。小宮山がベンチで指揮を執る姿を見ながら、この数年の色々なことを思い出していました。
ちょうどこのとき、年始に巻き込まれたトラブルが尾を引いて精神的に絶不調で、「消えてしまいたいなー」というよくない感情に襲われることが度々ありました。でも、この日に思ったんです。フットサル沼に引きずり込まれてから嫌なこともたくさんあったけど、楽しかったこと、よかったことの大きさは嫌なことに勝っているな、って。思えば30代は、プライベートでのしあわせなこと、楽しいことがたくさんあったけど、仕事ではフットサルにどっぷりでした。30代なのに、青春してたなあ。
試合前に会場で小宮山に会ったとき、私が言った言葉。
スーツ、似合わない。
ね、青春漫画みたいでしょ?
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