今日、朝目覚め、今日も生きている。どう生きようかではなく、今日命がここにあることをありがたく思うことが、この命を繋げてきたご先祖に対する敬意だと思った。

人と人が傷つけ合うこと、この世の片隅で、どこかで同じように生を授けられた。
生命という無数にある個体が大きな流れの中で、時に重なりながら、滅びるまでの道を泳いでゆく。生を受けて、みなが紆余曲折をし、荒れた塗装されていない道を滅びるまで歩んでゆく。心と心はそこまで近づいている。しかし、人と人が人であるがゆえに傷つけ合う理由が、言葉にならない小さな感覚として理解に近づいた気がした。
大きな流れの中に身を置いている。

皆誰もが、天の一方地の一角にそれぞれ生を受け、それぞれが紆余曲折し、それぞれが悠長な行路を辿り、やがて天の奥へと帰っていく。そのようなことを思うと、これ以上に、心の平穏を感じることはない。これ以上に、この世に生を受けたものに深い同情を持つことはない。この言葉が頭から離れない。やがて居なくなる、滅びてゆく。それぞれがそれぞれに生まれ、それぞれの行路という名の人生を歩む。
人間は少し足りていないほうが、心が受けるものはより繊細なものになるのかもしれない。人に囲まれ、常に腹は満たせれていて、何不自由なく過ごしていたあの頃よりも、深いところまで思考が迫っている感覚がある。自身が自身の精神、身体を生に捧げる心持ちならば、生は深い問いかけを与えてくれるみたいだ。

あの時のことを思い出す。
仕事で体はくたくたで、お腹は空っぽで、道をゆくひとに追い越されながら家路へ向かっている時だった。生をこれまでにない敬意、感謝、幸が感じられた。生を授けてくれた親への感謝、自身に対する敬意も感じられた。豊かさというものは、目に見える満ち足りている様であったり、十分である様のことを言うのではなく、おそらく、心の中にあるものを言い表しているのだろうと思う。
今日は実家に帰るつもりである。親という存在に会えること、愛猫に会えることを心待ちにしている反面、親という存在から距離を置き、愛猫から、友人から、自身の周りにあるものから離れたところから、彼らを思う方がより彼らのことを、温かい心持ちで、縁というものへの感謝を感じることだろう。それを何だか知った気がした。心の中に向かい合うものが佇んでいるのを感じる。


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