雲が空を覆う、空腹を感じることは生命を感じること、おにぎりは帰ってから

寂しい、という心持ちを抱えている。悲しいとは違う。似ているようで違うもの。
寂しいという心持ちは、心を温めるもの。だから悲しみとはやや違う。
寂しさは、離れてよくわかるものかもしれない。親元を離れて、22年と少しの間を過ごした家を離れ、愛猫と離れて、彼らがいる風景を思い返すたびに、心があたたかい何かに包まれる。それは何だかわからない。外側は冷たくなっているのに、内側は温かくなっている。寂しさがわたしの心に与えるもの。それが長い間そばにあれば、その心を温めるものとは、出会わないのかもしれない。懐かしいようで悲しいようなのだが、そこに残るのは冷えたものではない。

季節が夏から秋へと変わり、秋もそろそろ折り返しに差し掛かる頃だろうか、自身の心に静寂が住みつつあるのを感じている。人間も動物だからだろうか、生命の静まり、身を固めてその場を動かない、秋を超えた先に訪れる厳しい環境を意識にも上がらないほどの無意識の中で、準備を進めているのだろうか。春、夏と心から湧き出る活力を強く感じていたから、この頃その力が少しずつ弱まっているのが、よくわかる。これまでのめぐりゆく生命についてや、自然の理や、私の胸の中で鼓動させている生命が親、祖母、祖父、その前の先祖の出逢い合わせによって、今この命がここにあることを知り、自身の授かったこの命は、かけがえのない命であり、命の巡りという大きな流れの中にあるものだとよくわかった。
自身は、この世に自身の子を残すことをよく思わなかった。人生というものは、生まれながらにして授けられた自身という存在をその身が滅ぶまで向き合い続けることだと思っている。また、人生をどう意味付けするかは自由だと思う。けれど、日本だけでも年間に何万人もの自殺実行者がいて、世の中を生きたゆえに患う、うつ病や、心の病に苦しむ人間が居ることを知っている。人々が、武器を手に持ち命の奪い合う姿や、人という性質がこの集団生活にもたらすものであったり、そういった身の周りで起こる出来事をどう意味付けするかも自身の自由である。人と人がこの地球という限られた、あるいは果てしない場所で生きる中で自然な出来事だと思う反面、以前は、生命が生命を滅ぼす行為は自身にとって受け入れ難いことだった。この世界に子を、生命を残すことは、目を逃れてしまいたい出来事を目に入るように仕向ける行為であるとも考える。受け入れ難い出来事を自身が根底でどう思うのかは、他人にはわからないし、望む方向(生きること)へ促すこともできないと思う。自身の残した子が自死を選んだら、私は子をこの世に残したことを心から悔やむのだろうか、この世を心から憎しみ、人を恨み、自然を嫌うのだろうか。しかし、自身と向き合い続けることでしか味わえない生きがいのかけらを実感している今、この世に子を残すという行為への思いが変わりつつある。

今、自分がどうありたいのか、これから先にどう思いながら生きているのかは分かり得ないことだろう。だから今思うこと、感じることを重きを置いている。そのときに感じたことをどういう心持ちからきているんだと問いかけながら。こうして先ほど思っていたことを思い返して書くことよりも、精神からの疑念が浮かんだ時に自身の中から何が浮かぶのかをよく感じること、自身と向き合うことの方がよりその深部へと向かっていくだろうと思う。身を削いで、精神的に疲労を抱えてまでもどうして一生懸命になるのかという疑念が精神から湧いてきた。それは、死ぬ間際に生を尊重するためである旨を応じた。自身の精神から湧き出るものは、生とはどういうものかの確認もあるが、どうありたいかを試す疑念を問いかけるようなものもある。確認よりかは、疑念に頭を悩ませることの方が多いだろう。


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