「三原勇希 × 田中宗一郎 POP LIFE: The Podcast」のSeiho回がめちゃくちゃ面白かった話
今週のPOP LIFEの2回は、Seihoをゲストに迎えて、音楽にまつわる多様な話をしていましたが、これがめちゃくちゃ面白かったです。なので、備忘がてら、特に面白かった点をピックアップして書いていこうと思います。(記載はあくまで自分の解釈であり、実際の意見は音源を聴いていただきたいので、その点はしっかり割り引いていただければ。)
基本的に、まじでそれな!みたいな話ばかりです。(敬称略で行きます、ご了承ください。)
内容に入る前にですが、この回は、Seihoが結構際どい発言をバンバンしていくのに対して、田中宗一郎・三原勇希が若干戸惑いながら応答していくという、POP LIFEとしては結構珍しい構図になっていた気がします。Seihoの軽やかな口調で、バシバシと突っ込んだ話をしていくのがめちゃくちゃ良かったです。
「家」がどこだか分からない?
最初はアイスブレイク的に、あまり関係ない話からでしたが、関西出身のSeihoが、いつまで関西にいたのか?という質問を受けて、「いつまで関西にいたか分からない」って回答したのは、結構意味わからなくて笑いました。この辺から、この回の不穏な空気を感じるわけですが、まぁそのあとのホテル暮らしが多かったから、という理由を聞くと、分かるような気もしました。いや、やっぱり良く分からんかもしれない。。。ただ、家はあったほうが良いというのは同意で、少なくとも定住した生活が身に沁みついている日本人にとっては、家がないと不安になる気持ちは容易に想像できますね。
早速Seihoの語り口面白いなぁと思うわけですが、そういえばSeihoのインタビューってあまり読んだことがない気がする。田中宗一郎がインタビュした以下が紹介されていたので、今度読んでみようと思う。
ビーカーにスポイトで一滴ずつ貯めている?
この話はめちゃくちゃ良かった。シーンの話をしている流れでのSeihoの話です。
何か突出した才能を持つ一人の天才が時代を変えると思いがちですが、そうではなくて、不特定多数の蓄積の結果で時代は変わるのだと。それを「我々は、ビーカーにスポイトで一滴ずつ貯めているようなもので、誰がそのビーカーを溢れさせるかは分からない」というような表現をしていて、めちゃくちゃ納得しました。本当にその通りだろうと思う。なんでこの考え方が一般化しないんだろうということまで考えてしまった。
これをリスナーの立場からどう見れるだろうと、もう少し深く考えてみると、やっぱり、良いと思った曲や作品を、躊躇わずに表に出していくということなのだと思いました。あまり気の利いたことは書けないことが多いですが、それでもスポイトの0.001適ぐらいにはなるのではないかと思います。
もっと音楽評論が必要?
話は音楽評論に関する内容に入っていきます。田中総一郎がSeihoに対して気を遣いつつ、音楽を言葉で表現することについての話をしようとしたところで、Seihoは、いや音楽評論って全然足りてないですよね、今一番足りないのは若手の評論家だし、もっと評論家が育たないとジャンルがダメになりますよという話をします。これは勝手な想像ですが、田中総一郎も三原勇希も、ちょっと面食らったのではないでしょうか。自分も、え?ってなりました。そういう展開になるとは予想していなかった。
ここからの話もめちゃくちゃ面白かった。妄想がもっと必要。圧倒的に足りてない。妄想で語っていける強さ。曲だけでなく、文章も含めて楽しむ。言葉がなさすぎる。聴いたときに何が起きたか、感動が知りたいのに、事実ばかりが書かれている。もっと個人的なもので良い。こういう話が、熱く語られて行きます。(田中総一郎の関西弁が出てきているのは、きっと興奮しているからかなと思いました。)
この辺はもう賛同しかなかったです。自分の課題意識的には、量もそうですが、音楽とテキストが上手く紐づいていないというものがあり、そんなことを書いたことがあることを思い出しました。
Seiho的にはもっと個人的なことを色んな人が書くべきだと思っているけれど、三原勇希はそれを嫌がるアーティストもいますよねと。自分が正解だと、自分が考えていることが正解なんだと思う作家もいますが、それはそれとして、やっぱり色んなことを、覚悟をもって書いたほうが良いんだろうなと思います。リスナー側からも作品をそういう唯一の正解で閉じさせるのではなく、開かせること。作品を単純化させずに、複雑化させること。そういう意識が必要なのだろうと考えました。
「CAMP」と言えば?
前半戦の最後に、「CAMP」と言えば、スーザン・ソンタグが連想されますが、、、となって、三原勇希がそんなわけないでしょと突っ込んでいましたが、自分も全く連想できなかったです。というか、スーザン・ソンタグ知りませんでした。サブカルチャー文脈だと、結構必読な感じなんですかね。覚えておこうと思います。
そのあとの、Seihoが「CAMP」に込めた3つの意味も面白かった。所謂、外でやるキャンプって、日常生活の役割が解体されて、別の役割が生まれるよね的な話もなるほどーと思いました。
コミュニティの未来はどうなる?
ここから後半戦です。平沢進や、田中総一郎が完全DIYとしてやっているポッドキャスト、the sign podcastに関する話などから、コミュニティってどうあるといいんだろうね的な話になっていきます。
クローズドなコミュニティとパブリックなチャンネルのバランスを取ることの必要性をSeihoが語っていますが、確かになと思います。これに対して、田中総一郎が、the sign podcastはドーネーションとマーチンで回していこうとしていて、これがうまくいけば、一つの次の形になるのではという話をします。ここに対して、Seihoは、確かに良いとは思うけども、性善説で等価交換の次を目指していると鋭い指摘をしていて、なかなかに痺れました。これは本当にその通りだと自分も思っていて、田中総一郎自身も語っていますが、結構シンドイ仕組みだろうと。自分もドーネーションしましたが、継続的にドーネーションは出来ていないという現実はあって、そこから考えても、この先にどこまでの人がお金を出す仕組みになるのか、どこまでの人が残るのかというSeihoの疑問には頷きしかなかったです。田中総一郎は理想側で語っていて、Seihoは現実側で語っているという構図に感じましたが、この辺りのSeihoのバランス感覚がめちゃくちゃ良いなと思いましたね。あまりこういうリアリティある話が出来る人はアーティストには少ないのではないでしょうか。
応援の形に、お金以外の何かを見出したい、別に音楽をやるのにお金は発声しなくてもいいはず、というSeihoの話もめちゃくちゃ分かるので、ここはもっと突き詰めてほしいなと思いました。
サブスクの仕組みはどうなっていく?
ここは、どちらかというと、Netflixなどの映像系を念頭に置いた話なので、映像系には相当疎い自分は若干ついていけない部分もありましたが、ここも面白かった。
サブスクの問題は、コンテンツがどんどんなくなっていくことだと。確かに、映像系って過去作も出したり、消したりしてるっていうのはなんとなく知っています。これは権利者が、新規加入者のきっかけを作るためなんだという話をしていて、なるほどなと。確かにそれは納得です。
ここからは、そうなるとサブスクは出たり入ったりを繰り返すようになるんだろう的な展開になり、でも解約し忘れることも多いんだよね、でも1秒も観ないけれど、契約しているユーザっていうのがサブスク側から考えると最高だよねという流れのところで、以下の話を思い出しました。
Netflixは、長期間利用していないユーザーに契約を続けるかどうかの質問をしているそうです。2年とかそういうスパンなので、今回の話とはちょっとズレるような気がしますが、UX的にはこういう設計でユーザ満足度を上げる的な考え方はある気がします。
この仕組みが良心的か?と考えると、それは少し留保したいような気はしていて、理想は利用頻度によって料金が変動する従量課金制なのかなぁとか考えました。利用しなかったら0円って設計はやっぱり無謀なのかなぁ。
あとは、この話は映像系サブスクをターゲットにしていて、音楽系サブスクは違うよねということになっていましたが、触れられていた通り、ポッドキャストについては、映像系と同じ道筋を辿る可能性も十分あるような気もしますね。
そういえば、この後の流れで、三原勇希がSpotifyは音楽もポッドキャストも同じアプリで聴けるけど、Appleはアプリが分かれているという話をしていて、結構びっくりしました。ここ数年音楽はSpotifyしか使ってなかったので、そんなことになってるとは知らなかった、この辺に各社のコンテンツの捉え方が透けて見えて面白いですね。
音楽コンテンツは、もっと囲い込みをしたほうが良い?
Seihoのなかなか刺激的な発言の一つですが、音楽コンテンツはもっとプラットフォーム側が囲い込みをしたほうが良いということを言っています。
リスナー側からすると、ちょい待ってくれという感じですが、いまやアーティスト個人やレーベル側からもリリースできる状態なので、プラットフォーム側がレーベルの機能をもって、制作ノウハウを貯めていけば、お金もあるわけだし、作品もどんどん増えていって、面白いことになるのでは、という理由で、なるほど、そういう考え方もあるのか、、、となりました。確かに中長期で見れば、そこまで見据える必要がありますね。この辺は、もう少しちゃんと考えてみたいところでありますが。
海外と日本はどういうところが違う?
ここもなかなか際どい発言していると思います。海外と日本はどういうところが違うか?という問いに対して、Seihoはそもそも違うと思いすぎてはいけないと話しています。ここまでは普通。ここからがなかなか突っ込んでいるのですが、もはや海外では、日本のアーティストは、民芸品・お土産みたいにしか扱われないのだと。お客さんもほとんどアジア人。つまり、海外のマジョリティに浸透しているのではなく、海外のマイノリティがシンパシーを感じてくれているわけであって、不特定多数の大勢と無意識的に繋がれているわけではない。何かしら根っこが一緒な人とのみ繋がれているだけであって、国ごとにウケるものも違うし、ありのままでいるよりも、どうやって説得するかを考えるのが大事、的な話をしていて、本当にめちゃくちゃリアリスティックだなとびっくりしました。
その通りだと自分も思いますが、なかなかはっきりと、かつ、良い意味でこの軽さでこういうことを言う人はなかなか居ない気がする。でも、この後のロウ・エンド・セオリーの感動的な話なんかも併せて考えると、別にSeiho自身、これを悲観的でも楽観的でもなく、ただの今の事実として捉えているだけであって、希望がないとかそういう話では全然ないなと感じて、めちゃくちゃ良かったです。
音楽は新しいもの以外は意味がない?
最後ですが、最も危うい発言で、個人的に今年イチ笑ったかもしれないという箇所。
Seihoは、音楽は新しいもの以外は意味がない、新譜以外は聴く価値がないと言い切ります。ここで爆笑。
リアルは日々更新されていくものであり、今の状況が理解できるのが音楽の面白さであって、過去は変えられないので、過去を振り返る意味はない的なことを続けます。
ここだけ聴くと、相当ラディカルな話ですが、その心は、過去の曲を新譜として触れられるか。新鮮さをそこに見つけられるか、捉えて聴けるかという意味合いでの、"新譜"という言葉であったということでした。ただ、この辺は、受け手側のリテラシーも必要なので、難しい一面もありますねという話です。
ここまで聴くと、なるほど確かにその通りだなと思います。ただ個人的には、本当に新譜ばかり聴いているので、それはそれで思うところがありました。Seihoの言う通り、やっぱりリアルタイムを捉えて表現しているという点に面白さを感じるんですよね。これは音楽以外のコンテンツも同様です。なので、如何にして、過去の曲と出会うかということは、改めて考えてみたいなと思いましたね。
さいごに
色々書きましたが、これでも書けなかった話がたくさんあります。あえて書かなかったのですが、一番良かったのは、Seihoがところどころで、
音楽が良いのは、楽しいから。音楽を通して何かを言う必要がない。楽しすぎるから。気持ち過ぎるから。
ということを言っていることです。これが本当にめちゃくちゃ良い。この発言を、一切の衒いなくしている。素晴らしいなと思いました。
本当に興味深い話でした。まだまだ話題は尽きなそうな気配を感じたので、またSeiho回やってほしい。もう一人ゲストを入れて、さらに話をドライブさせていくのも聴いてみたいかも。
とにかく面白かったので、聴いていない方は、是非聴いてみてください。