コンパウンドスタートアップの考え方を、人にも適応できるのでは?と考えたが、挫折したので、雑に書き残しておく話
タイトルの通りだが、最近コンパウンドスタートアップの話をよく見かける気がする。
個人的にも筋が良いのではと思う話だが、これはスタートアップに限らず、人にも(具体的にいえば人の"キャリア"だろうか)適応できるのでは?と思い、色々考えてみた。
結果、いまいちまとまらなかったので、素材と簡単なメモだけ、雑に書き残しておこうというもの。
きっかけはこの一連のポスト。(引用元記事:Platforms of Compounding Greatness)
コンパウンド成長の時代
— 久保田 雅也@Coalis (@kubotamas) September 6, 2024
時価総額の中央値で複数プロダクトは単一プロダクトの2倍 pic.twitter.com/5aVL8tf8Wi
複数プロダクトはマルチプルも高く、時価総額で$5Bn以上のSaaSは8割が複数プロダクト pic.twitter.com/JU7619tlzL
— 久保田 雅也@Coalis (@kubotamas) September 6, 2024
そもそもコンパウンドスタートアップとは?という話はこちら。
コンパウンドスタートアップとは
・創業時から単一プロダクトではなく、複数プロダクトを意図的に提供
・部署でサービスを区切るのではなく、データを中心にサービスを統合する
・プロダクト間の連携の良さそのものがプロダクトである
・複数のプロダクトを管理、ローンチするケイパビリティを持つ
という特徴のスタートアップです
最近だと、今年の4月創業のPeopleXも特徴1として、コンパウンドスタートアップを掲げている。
特徴1:コンパウンドスタートアップ
Day1からコンパウンドスタートアップとしての製品開発、基盤を整えていっています。
こんな話がぼんやり頭にありながら、聴いていたポッドキャストが、以下。
冒頭から、安野貴博さんの活動の広さが話題になっているが、
AIエンジニアも起業家もSF作家も、そして政治家も、本人からすれば、全て「テクノロジーを通じて、未来の社会がどのようになるのかを考え、実装していく」活動であると語っている。
―安野さんの職業は、AIエンジニア、起業家、SF作家と……振り幅がすごいですよね。
安野たかひろ(以下、安野):訳がわからないと思われるかもしれないんですが、自分のなかでは、テクノロジーを通じて未来の社会がどうなるだろうということを考え実装していく、という一つのことをやっているつもりなんです。
AIに関係するソフトウェアをつくるのであればAIエンジニアになりますし、それをサービスとして実際に多くの人に提供することは起業家の役割になる。また、現時点で実装する技術力はまだ人類にはないけれども、近い将来こういうことが起きるだろうと考えるという意味で言うと、フィクション小説のかたちで提供したいのでSF作家になる。
一つの軸にいろんなやり方があって、そのなかの一つに「都知事選に出る」というものも入っているんです。
これを聴きながら、この人がやっていることって、コンパウンドスタートアップ的な戦略を、個人で実行しているということなのかも
と思ったのが、今回の話を考えることに至ったきっかけだった。
この中でも話されている通り、普通に考えると異常なアウトプット量なわけだが、もしかしたら、生成AIのようなテクノロジーが発展していくことにつれて、インプット・アウトプットのハードルが下がり、情報の形式そのものがあまり意味をなさなくなる(=生成AIが変換してくれるので)ことによって、芯の通った思考によって多様なアウトプットを生み出すような人材が増えていくのかもしれない。
他にこういう人いるっけ?と考えると、まず思いつくのは、大谷翔平か。
二刀流なんて普通はできないが、出来てしまっている。最初から二刀流の可能性を追求しない限り、実現できなかった世界だろう。
他に自分が思いつくのは、文筆家のつやちゃん。
あえて何か一つと言われれば、"音楽"というジャンルがふさわしいのだろうと思う書き手だが、自分が初めて出会った読んだつやちゃんの文章を改めて読んでみても、はなから"音楽"というジャンルにはめられる話では全くない。
これは意識的だったのだろうと思うし、今更ながらに知った最初のnoteを見ても、それは明らかだった。
クラブミュージックとか映画とか小説とかギャルとかお菓子とかロックとか渋谷とかレストランとか教育とかファッションとか美容とか哲学とか人間関係とかヒップホップとかについて、色々なところで適当に書いたり読んだり喋ったりしていましたが、きちんとnoteに記していくことにしました。
そして、まさしくここで書いているようなことを、一切幅を狭めずに(むしろ活動の幅を広げながら)、真っ当に書き続けているのだから、本当にすごい。
普通に考えれば、こういうことができるのは、一握りの人だけであるので、あまりこの議論に意味はない
という視点はもちろんあって、それに対する反論がうまく出来ないのが、正直なところ。
ただ、例えばこんな本があったりする。
まさしくここでいう「幅」を意識できているか?というのが一つポイントなのかもしれない。
「1万時間修業したら、その道のプロになれる」という法則を真っ向から否定してくる本
— もとやま📚著書『投資としての読書』 (@ysk_motoyama) September 11, 2024
個人的にも拠り所にしている一冊 pic.twitter.com/f2tbxNJ2PH
とはいえ、、、とも思う。
なので、もう少し考えてみると、「編集」というのはキーワードになるかもしれない。
先日亡くなった松岡正剛の言っている「編集」はまさに↑に書いたような人たちに通ずる考え方な気がしている。
才能の80%は編集力だ。
私が使う「編集」という言葉は、とても大きな範囲に使われています。普通は、新聞や雑誌の編集者がしている仕事を「編集」というのですが、そういう狭い見方をしていません。たとえば、人々が言葉や仕草でコミュニケーションをすること、その全てに「編集」というものが生きているとみなします。だから普段の会話にも学問にもエンターテインメントにも、スポーツも料理も「編集」が生かされているわけです。
または若林恵の持っている考え方も似たようなことだと思っている。
「編集っていう仕事の面白さは、エンジニアリングじゃなくて、ブリコラージュなんですよね」って言っていて。彼に言わせると、ブリコラージュが基盤となっている仕事って実はそんなに多くないって言うんです。
エンジニアリングっていうのは、いわば機械論的に物事を組み立てていく作業ですが、ブリコラージュって、あり合わせの材料でなにかを作る「器用仕事」という概念ですよね。なるほど、たしかにと思ったんですが、畑中さんは、そもそも雑誌編集者っていうのは民俗学者みたいなものなんだって、言ってたと思うんですが、畑中さんの本の題材の選び方って、やっぱり雑誌編集者っぽいですよね。
制度とコンテンツがせめぎ合う場所で、新しい実験を絶えず繰り返すという営為は、本来はいったい誰が担うべき仕事なのだろう。坂本さんは、それこそが「編集者」の仕事だと、期待とともにいつも考えていたのではないかと思う
若林 たしかに(笑)。津野さんは「編集者って何ですか?」と聞かれたらどう答えますか。
津野 答えられませんよ、その手の質問には(笑)。ただし、編集という行為そのものはね、映画の編集があるでしょう、あれなんですよ。すでに撮り終えた山ほどあるフィルムから、必要なものをえらんで、それを的確につなぎ合わせて、新しい面白さ、新しい美しさ、新しい深さ、つまり新しい価値を生み出す。すでにあるものからえらんで、つなげる―映画にかぎらず、それが編集という行為なんじゃないかな。
そのものずばりのような言葉は見つからなかったが、
こういった「編集」的視点・観点を持ちながら、自分自身の持つ興味関心・これまでの知識経験を総動員して、何が"面白い"のかを考える。
そのうえで、根本となる軸を常に持たせながらも、何かの枠に囚われることなく、アウトプットしていくこと。
そうすることで開けてくる未来というのはありそうだ。
ここまで書いて、ジェネラリスト的な話だったり、100人に1人のスキルを複数組み合わせることが重要だみたいな話も、似たようなものかもしれないと思うので、こういう話は別に目新しいものではないのかもしれない。
ただ、時代が変わっていく中で、また違った見方・考えが生まれているのかもしれない、と思ったので、没にするのももったいなく、雑ながら書き残してみた。