隣の芝はそれでも青い
「隣の芝は青い」
自分のものよりも、他人のものの方がよく見えるということを意味する表現。より一般的には「隣の芝生は青い」という。
まあ皆さんご存知の通りの隣の芝は青い。
他人の方がよく見えたり、自分と比較したりで勝手に落ち込んだり。器用に生きれる人はこんなにめんどうなことをしないかもしれないが、私は器用では無いのでこの現象によく陥る。
一番最悪な時は、自分以外の誰かになりたくてしょうがないってずっと思っていたし、なんなら今もそんな気持ちが背後からやってきている気配がする。
そんなことを言ってもね、朝起きたら誰かの人生と入れ替わっていることは無いし、流れ星が流れる間に3回心
の中で唱えても自分の人生を放棄することは出来ない。
だからなのか、時間が経ったからなのか分からないけれど付き合い方を最近変えました。
「それでも隣の芝は青いなら、自分の芝をせっせと磨いてみようと」
何か意味分からないポエムみたいだけど、至って真面目です(笑)
きっとね、自分以外の誰かが生きていて世界が出来上がっているのであれば、他者と比較することからは逃れられないと思う。
なぜそんなことを言うか、それは他者と比べることが人間の中に当たり前のシステムのように組み込まれているからだと勝手に思っている。
学校だってテストや足の速さで順位がついて、当たり前だけれど学校で取り上げられるのは上手い人で、運動が出来ない人が体育で見本をすることなんて絶対になくて。そういう勝手に順位付けというか上手いか下手かが分かってしまうようなやり方がすごく嫌だった。
加えてSNSが普及したことも大きいと思う。
本来なら知り合えないような人を知れたり、嫌でもその人の生活が垣間見えたり。自分と同い年で何か功績をあげている人を見たら、一体自分は何ができるんだろうとか何にも出来てないなとか思うし、すごく能力がある有名人や芸能人といったように手の届かない存在であれば青くは見えない。やっぱり、自分と近い場所にいる人だからこそ羨ましいとか思うのかな。
自分の生活がさぞかし充実していたら少しはそういう羨ましいと思う気持ちは減るかもしれない。完全にはなくならないと思うけれど。それか、充実したけれどまだ足りないからって、もっともっとって何かに依存してしまう人もいると思う。
自分以外の誰かが存在する限り、比べることは辞められないかもしれない。自分が羨ましいなとか輝いているなと思う人にも悩みや葛藤、それこそ隣の芝は青い現象は起きているんだろうと思う。
そう思ったら、比較していないで自分ができることをやろうという風に自然と思えるようになった。
今までは頭では分かっていたけれど、心で納得していなかったのにすんと体に落ちてきた。
最近心で納得できることが増えた。
悩んでも変えられないところ、例えば生まれた場所・家族・性別色々あると思う。変えられないからこそ憎しみとか恨み・辛みはあると思うけれど、そんなことしても何も変わらないし、自分がなにも出来ないうちに他者はもっと自分の芝を磨いているかもしれない。
だったら、自分も変えられる場所に目を向けて磨こうと思えるようになった。少し前の自分が見たら綺麗事だなと思っていたはず。
変えられないところに悩む時間を変えられるところの努力に当てるようになった。
今になって気づいたのかと心が自立している人に言われそうだけど、ここで気づけたことが大切だと思うし、気づけずに悩んでいた時間も決して無駄だったとは思わない。
まだまだ、行動が伴わないこともあるけれど一歩前進できたかなと思う。
ダイエットが分かりやすい例で、自分より細い人見て羨ましいとか落ち込んでも自分の体重が減るわけではないし。それなら自分も運動しようとか今できることをしようという風に気持ちを切り替えられるように少しはなった。
自分がどんなに芝を磨いてもそれでも羨ましいとかすごいという人は沢山いるわけで、そんな人たちにも青く見える芝がきっとあって。
芝を青く見ているだけでは、精神状態にも良くないから少し負荷がかかっても自分の芝を磨いている方が気持ちは楽になれた。
卑屈になっていても幸せにはなれないってやっと気づけたみたい。
こういうことに悩めることも感情があるからこそですごく人間らしくて、草花はこんなことに悩まないんだろうな。
自分の考え方の偏りとかマイナスに考えてしまうところとも少しずつ向き合って目指したい自分になろうと決意した2023年の始まり。