恋をしていた話 -BGM付き
あの日は朝から頻りに小雨が降っていた。
傘を叩く雨粒のリズミカルな音。
しっとりとした空気。
「雨男だもん、仕方ないよ。」
空気とは裏腹に彼女はカラッと笑った。
彼女には「バレンタインだけ」何年もタイミングが合わずに会えない人が居た。
それこそ日常では予期せぬ時間に互いの最寄り駅でもない駅のホームで出くわしたり、道向かいにお互いを見つけては子供みたいに声を掛けて笑い合ったりした。
それなのに「バレンタインだけ」偶然も そして約束も出来ず年数だけが過ぎていた。
5年前。
仕事帰りに立ち寄ったイベントで初めてその人と出会った。
当たり障りのない社交辞令。
営業スマイル。
互いに得意分野だった。
そのことにも既に、気付いていた。
おそらく互いに。
自分にはない才能のある人だな。
彼女はその人のことをそう思ってきた。
でも、どこか似ている。
思想というか、それを口にするために選ぶ語彙というか。
だからお互いを分かり合うには時間はかからなかった。
その分、不意に真意をついた言葉を言い当て 言わなくていい事まで言ってしまう厄介な場面もあったのだけれど。
いつの間にか彼女は彼の思想や紡ぎ出される言葉に恋をしていた。
憧れとも違う、分かり合える根っこが同じなんだと信じて。
そして いつからか顔を合わせて言葉を交わさずとも、SNSのコミュニケーションで生まれた数々の場面にすら、きちんと記憶にしまってある。
まるで栞を挟んだみたいに、1つずつ引っ張り出せるように。
その日、2人の前にはパンケーキが置かれていた。
小さな喫茶店で、傍からみたらスイーツを囲む恋人たち。
しかし2人は懇々と互いの仕事の話に夢中になった。
彼女はパンケーキよりも、一語一句逃さず彼の言葉を飲み込みたかった。
いま駆けずり回ってる契約の話。
仕事仲間の話。
自身の生い立ち、家族の話。それすらも彼にとっては仕事の一幕だった。
てっきり脱線した話かと思えば、予想だにしない流れでビジネスに繋がってくるその発想がやっぱり魅力的だった。
彼は生きているだけで、まるで自身を商品として売り込んでいるような人だ。
何時間経ったのだろう、会話を終えるころには彼の展望を共に夢見ていた。
パンケーキの後に控えていた打ち合わせがなければ、夜を明かしてでも話をしていただろうに。
それくらい 互いに言葉を交わすことが生き生きとしていた。
出会い方を間違えたのかもしれない。
彼女は彼と言葉を交わすごとに、そう思った。
言葉に恋をした。
才能に恋をした。
彼そのものへの恋心ではない。
むしろ、ビジネスパートナーとして出会いたかった。
と、思った頃にはもう見境がつかなくなっていた。
恋は盲目とは、こんな場合にも当てはまってしまうのか。
あの日、社交辞令が得意な彼女は今まで1度も叶わない4回目のバレンタインチョコを忍ばせて彼の元に向かっていた。
社交辞令と思ってもらって良かった。
ここで2人が会うはずのない場所だったけれど、今までの日常に生まれていた偶然があったから2人にとっての違和感は全くなかった筈だ。
目的地までの道すがらに見えた彼のシルエット。
頻りに小雨は降り注いでいたけれど もう見間違えるはずがない。
まさか、と今年こそ、がぐるぐると相まったまま駆け寄る。
彼だ。
片手に収まるパッケージを握りしめて差し出す。
お互いに驚いた表情のまま。
彼女は「ありがとー!」と言葉少なに、急ぎ足で仕事に戻る彼の背中を見届ける。
せっかく叶ったバレンタインは雨空の下。
「雨男だもん、仕方ないよ。」と笑って。
傘を叩く雨粒の音は、リズミカルだった。
皮肉なことに、初めてのバレンタインが叶った日から
彼と顔を合わせて言葉を交わす日は来なくなった。
世はパンデミック。
生活が変わり、仕事の仕方もペースも変わり、
日常に起きていた2人の偶然が重なる環境も夢のように消えた。
しかし、それでも変わらずに届けられた彼の言葉たちに救われたのは言うまでもない。
あの日、会えていなかったら「バレンタインだけ」会えない2人は そのまま存在していたのかもしれない。
ただ「バレンタインに会えてしまった」後悔はもちろん一片たりとも無い。
あの日から1年。
変わってしまった世界に、変わらないあの思想と言葉と才能が生きていることの方が本望だと思えるくらいに彼女は彼に恋をしていたのだ。
だから、彼の思想と言葉と才能にはさよならが出来ない。
それが近い未来に輝くことを信じ、
それさえもまだ恋と呼ぶのなら、
きっと人は恋をやめられない。
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