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【~連載~静岡の歴史を学ぼう220】Why was the position called 'Sumpu Jodai' created? Part2        なぜ「駿府城代」という役職が作られたのか パート2

※ この記事は「静岡移住計画Facebook」に掲載しております。

駿府城代屋敷は現在の静岡市歴史博物館の場所にありました。歴史書の「駿国雑志」には駿府城代屋敷は敷地が約9395坪あったと書かれています。城代屋敷の表門は赤く塗られており、それは以前この地に少将井社(現在の小梳神社:葵区紺屋町)があった時の習わしだと言われていました。


Why was the position called 'Sumpu Jodai' created? Part2
なぜ「駿府城代」という役職が作られたのか パート2



Sumpu Jodai was one of the positions in the Edo feudal government.
駿府城代は江戸幕府の役職の一つです。

‘Jodai’ (castle managers) were exclusively assigned to the Nijo Castle in Kyoto, the Osaka Castle, and the Sumpu Castle.
「城代」(城の管理人)は京都の二条城、大阪城、そして駿府城に限って任命されていました。

駿府城代邸址
静岡市歴史博物館にて




These castles had no castle owner and Jodai used to manage them instead.
これらの城には城主はおらず、城代が代わりに管理をしていました。

駿府城模型より 駿府城代邸はこの辺り



Jodai was an elite and the highest ranking ‘Hatamoto’, who was allowed to directly meet the Shogun.
城代はエリートで最も高位な「旗本」でした。旗本は将軍に直接会うことが許されていました。

高い位の武士のイメージ



Sumpu Jodai was in charge of the following duties:
駿府城代は次のような職務を担っていました。

1. The general governance in Sumpu.
Guarding and repairing the Sumpu Castle.
1.駿府の一般的な統治
  駿府城の警護と修繕

2. Visiting and worshipping the Kunozan Toshogu Shrine instead of the shogun every New Year, April, and September.
2.将軍に代わって、正月、四月、そして九月に久能山東照宮に参拝する

駿府城代が将軍の代わりに参拝した久能山東照宮



Jodai met the shogun once in five years to report about it.
城代は五年に一度、将軍にお目見えする。

3. Inspecting the territory.
3.領地の巡見



Sumpu Jodai was allowed to govern some villages and areas where he had the right to collect taxes.
駿府城代は税収を得るための知行地を統治することを許されていました。

It means that he could directly get tax income from local villages.
つまり地元の村々から直接税を徴収することが出来ました。

The fund had to be saved to be spent in case of emergency.
その資金は緊急時のため貯金しておかねばなりませんでした。

(参考資料)
「徳川家康と駿府城下町」  黒澤脩著 静岡谷島屋

駿府城代邸より以前に存在した少将井社は移転して
現在は小梳神社(葵区紺屋町)となっています。



  


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