【~連載~静岡の歴史を学ぼうシリーズ69】Abekawa Bridge 安倍川橋
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安倍川の歴史は駿府、静岡の歴史と深くつながっています。安倍川の治水が駿府の発展に大きく関わってきました。徳川家康公は安倍川の流れを制御するという大事業を達成し田畑や人々が住める場所を広げることで駿府を発展させました。今回は明治時代の安倍川の大事業を見てみましょう。
Abekawa Bridge
安倍川橋
Abekawa Bridge connects Miroku in Aoi ward and Tegoshi in Suruga ward.
安倍川橋は葵区の弥勒と駿河区の手越をつないでいます。
In the Edo period, building any bridge over the Abe River was prohibited by the feudal government as a military strategy.
江戸時代、安倍川にかかる橋を造ることは幕府が軍事戦略上、許していませんでした。
Travelers hired kawagoshi-ninsoku (river-crossing workers) to cross the river.
旅人たちは川越人足を雇って川を渡りました。
About the 4th year of the Meiji Period (1871), people would cross the river via a temporary bridge or on boats.
明治4年ごろ、人々は仮設の橋または舟で川を渡っていました。
Those were inconvenient means to cross the river because they depended on weather conditions.
天候に左右されるので、仮設の橋や船を使って川を渡るのはとても不便でした。
In 1874, Miyazaki Sogo, a local businessman in Miroku, constructed a wooden bridge with his own money.
1874年、地元弥勒のの実業家である宮崎総五は自身のお金で木製の橋を建設しました。
He hired former kawagoshi-ninsoku for the construction.
彼はその建築に元川越人足を雇いました。
It was called Ansui-bashi (Ansui Bridge).
それは安水橋と呼ばれました。
It was 3.6 meters wide and 630 meters long.
幅3.6メートル、長さ630メートルありました。
At first, people had to pay a toll to use the bridge.
当初、人々は橋を渡るのに通行料金を払わなければなりませんでした。
So, the bridge was called 'Chin-tori-bashi,' which means 'a toll-collecting bridge'.
ですから「賃取り橋」と呼ばれました。「料金を徴収する橋」という意味です。
In 1896, the management of the bridge was finally transferred to the prefectural government.
1896年、橋の管理がようやく静岡県に移りました。
At last, the use of the bridge became free.
ついに橋の通行が無料になりました。
A stone monument commemorating Miyazaki contribution in building the bridge stands in Miroku Ryokuchi (Miroku Park).
宮崎総五の橋を建設した業績を記念した石碑が弥勒緑地(弥勒公園)に立っています。
参考資料:静岡ドボジョが行く!しずみち散歩 Vol.2
大正生まれの安倍川橋編
参考文献:しずおか町名の由来 飯塚伝太郎著 長倉智恵雄補筆 静岡新聞社
安倍川橋 手越側から見る
安倍川橋から望む安倍川
安倍川橋 葵区弥勒側から
宮崎総五 ウィキメディア・コモンズより
安倍川架橋の碑 弥勒緑地
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