【~連載~静岡の歴史を学ぼう308】 家康公はシティデザイナー その6 江戸時代の身分差を現在の「おまち」で発見!
※ この記事は「静岡移住計画Facebook」に掲載しております。
静岡市葵区中心市街地は通称「おまち」と言います。
静岡人A「どこに住んでいるんですか?」
静岡人B「あ、呉服町なんですよ」
静岡人A「えー、『おまち』じゃないですか~」
と、いう感じで使われます。
この町名が英語でいういわゆる「downtown」=町の中心部だと思って頂ければよいかと思います。
この「おまち」は駿府のまちが整備された約400年前にはもう存在していました。
家康公は駿府のまちを三つに分け、開発しました。※英語訳については私個人の考えです。
①武家地=samurai’s area (サムライエリア)
②町人地=commoners’ area (普通の人のエリア)
③寺社地=religious area (宗教エリア)
この三つのエリアに分かれていることが、静岡市葵区中心市街地を考える上で重要なのです。武家を支えるために、町人地が整備され、職業ごとに住む場所を当たられました。
呉服町は呉服を売る人々の町です。
「おまち」では400年前の都市の特質を現在に居ながらにして見ることが出来るのです。
武家地は今でも行政施設が多くあります。そして武士は駿府城内もしくはその近くに住みました。現在も人気住宅街は駿府城近くにあります。町人地は現在も商業地です。そして寺社地に関して、一部は戦後、沓谷に移されましたが、今でも同じ場所にある寺院、神社が多くあります。
江戸時代はざっくり言うと約10%の武士が平民たちを支配する構造で、「士農工商」と言われるように、身分構造のトップにいたわけです。
住む所にもその特徴が表れます。つまり、武士の方が「良い場所」に住んでいたのです。
駿府で「良い場所」とは?
一言で言うと「安全な場所」=「安倍川の洪水の被害を受けにくい場所」
つまり標高が高いところ、です。
とは言え、「じゃ、賤機山に住むか」となると、そこに広い城は作れません。(山城はありましたよ。中世、防衛施設として賤機山城は重要でした)
支配層が住むのにある程度まとまった平らな土地で標高が高く、周りに平地があり、その近辺に被支配層を住まわせることが出来る。
というと、現在の駿府城の場所しかないわけです。
ちなみに駿府城公園の中心辺りの標高は海抜約23メートル。
これは「国土地理院地図」と検索し、地図とGPSを連携させ、中心部にある十字マークを測りたい場所に合わせれば簡単に標高を知ることができます。
ちなみに呉服町の葵スクエアの辺り(葵区役所前、呉服町名店街)を調べてみると、標高20.3メートル。3メートルほど低いわけです。
この実際の標高差が身分社会の差だと言えるかもしれません。
「おまち」に標高の差を見られるところがあります!
それが葵区役所南側にある階段です。
葵区役所の南側入り口から見ると、呉服町が低いのが分かります。
そう、そこが旧武家地だから高いんですよ!
家康公は身分社会の構造に関してシティデザインを通してしっかり固定化していたわけです。
(上記地図:国土地理院地図より)