見出し画像

東海道は「57次」だった?『歩いて学ぶ東海道57次』収録のコラムを公開

2024年4月に静岡新聞社から発売された『歩いて学ぶ東海道57次』(志田威・著)は、江戸から大坂まで、東海道57次の宿場を歩くためのガイドブック。カラー写真や古絵図とともに、今に残る宿場の史跡や施設を紹介しています。

え?東海道は「53次」じゃないかって?
確かにこれまでは、江戸の日本橋から京都の三条大橋まで、東海道には53の宿場があるといわれてきました。

ところが、近年は京都の手前で分岐し、大坂へと至る道もあったといわれるようになっています。

本書は従来の53の宿場に加え、大坂に向かう道中にある伏見・淀・枚方・守口の4宿、そして終着点である高麗橋を含んだ「57次」を一挙紹介。

本記事ではその中に収録されたコラム「東海道57次とは?」を公開します。東海道57次はどのように作られたのか、なぜ近代以降に53次といわれるようになったのか、気になる方はぜひご覧ください。

東海道57次とは?

太平の世を支えた江戸~京・大坂の大動脈

徳川家康は慶長5年(1600)9月15日に関ヶ原の戦いに勝利すると、すぐさま街道政策に着手した。具体的には、江戸と京をつなぐ東海道に40ほどの駅(宿・宿駅・宿場)を置き、各駅に人足36人、伝馬36疋を常備させるもので、全駅がこの人馬を使い、役人を隣宿まで送り届けるよう幕府から命じられた。

翌慶長6年(1601)に始まったこの制度は、家康の朱印状や高官が記した証文持参者であれば無賃で利用できた。宿駅といえば、旅人たちが寝泊まりした休泊地のように語られることが多いが、実際の使命は幕府の役人たちがスムーズに移動を行えるように整備された旅支援中継基地だった。

関ヶ原の戦いの後、家康は江戸幕府を開き、天下人となったが、西国の外様大名たちの動向には注意を払う必要があった。その意を汲んだ二代将軍・秀忠は大坂の陣後、大坂城を再建し、東海道を大坂まで延伸することで、豊臣恩顧の大名へにらみを利かせた。大津宿の先にある髭茶屋追分から大坂へと至る街道には、伏見・淀・枚方(牧方)・守口の4宿が置かれ、これにより京・大坂の2カ所が東海道の終端となった。

東海道分間延絵図(文化3年完成)には大坂までの宿駅が描かれている(郵政博物館蔵)

この内、江戸から京までの東海道は、歌川広重が「幕府が朝廷にお馬を献上する道中」として浮世絵に描き、好評を博したことで広く知られた。さらに明治以降も教科書などで紹介されたことで、次第に「東海道といえば53次」というイメージが形成され、「大坂までの57次」は忘れ去られた。

しかし、文化3年(1806)に幕府道中奉行所が作成した「東海道分間延絵図」には、江戸から大坂までの道中の様子が細かく描かれている。天保14年(1843)の幕府調査記録「東海道宿村大概帳」にも大坂までの各宿駅の人口や石高、休泊施設などが記されており、幕府が東海道を「大坂までの57次」と認識していたことが分かる。

寛永元年(1624)、東海道に最後の宿駅である庄野宿が置かれ、この時点で東海道は江戸から京までの53継立、大坂までの57継立となった。その後、津波による被災等で宿駅移動はあるものの、新たに宿駅が追加されることはなく、宿駅伝馬制度は明治初期まで続いた。「沿線の潜在力を遠隔地の管理に活用する」という画期的な発想が、260余年にわたる江戸幕府の礎を築いたといっても過言でないだろう。

東海道守口宿と書かれた江戸期帳簿(守口文庫蔵)

著者:志田 威(しだ たけし)
1943年(昭和18年)生まれ。
1967年、東京大学経済学部卒業後、日本国有鉄道入社。
1987年に東海旅客鉄道(JR東海)経営管理室長以降、取締役総務部長、常務取締役、専務取締役、ジェイアール東海不動産社長などを歴任。
現在は「東海道町民生活歴史館」館主兼館長、朝日大学客員教授、㈶恵那市観光協会「恵那観光大使」。社会福祉法人中部盲導犬協会評議員会委員長。
著者に「東海道57次」(ウェッジ)、「東海道五十七次の魅力と見所」(交通新聞社)など。


いいなと思ったら応援しよう!