ボタンを押したらこうなった
ショッピングモールでトイレに入って鍵をかけたら、そこに
「小さいお子様と入られる方は、上の鍵もおかけください」
という張り紙があった。
つと上を見ると、ドアの高いところに、同じ形の鍵がもう一つあった。
おそらく以前、母親が用を足している時に子どもがドアを開けてしまったのだろう。う~ん、想像しただけでぞっとする。
それにしてもどうして、いたずらされて困るようなものはいつも、子供の目の高さにあるのだろう? かくいう私も、違うタイプの大惨事にあって、大変な思いをしたことがある。
娘が幼稚園の年少くらいの時のことである。
帰省中、兄の家族が動物園に誘ってくれた。そこは、動物園と森林公園が一緒になったような施設だった。木々の中に点々と動物がいるという感じで、歩いていても森林浴をしているようで気持ちが良かった。
途中、娘がトイレに行きたい、と言いだしたので、近くのトイレに入った。
そこは6畳くらいの広さがある、大きな多目的トイレだった。私も入らなくてはいけないので、広いのは有難い。
娘の世話を済ませると、娘が「お母さんは?」と聞くので、それじゃあついでに、と自分も用を足すことにした。
「ああそうそう、そこの赤い非常ボタン、押したらダメだからね~」と言いながら便座に腰掛けた。ちょうど、娘の目の高さにあったから気になっていたのだ。
「え?」
座ってみると、娘が目を真ん丸にして私を見ている。その右手は人差し指だけが伸びていて、第一関節が、赤いボタンの中にめり込んでいた。
「押した…?」
「だって…どうなるのかな~と思って…」
「ええ~っ…」
どうなるんだろう?と思った瞬間、答えが出た。けたたましくサイレンが鳴り始めたのだ!
どこかに止めるスイッチはないものかと視線を走らせていると、ウォシュレットの操作基盤のスピーカーから、男性の声で「どうしました?」という声がした。
ホッとして「あのすみません、子どもが間違えて押してしまって…。何でもありません。すみません」と言うと、ああとかふんとかいうリアクションと共に、ガチャンと回線が切れる音がした。
まあこれで、サイレンは止まるだろう。良かったよかった。
しかし、なかなかサイレンは止まらない。そして、トイレの入り口のドアに入った細長いガラスの向こうが、さっきより明らかに暗い。かと思えばサッと明るくなったりする。え、人がいる…?と思った瞬間、誰かがドアをドンドンと叩きはじめた。
「いやあの、大丈夫ですから~!! 何でもありませんから~!」と叫んでみたが、ドアまで遠いのと、サイレンの音で声は届かない。
娘が「大丈夫って、言ってこようか?」というので、一瞬「そうして」と言いそうになったが、私は真っ最中で、ドアを開けられては非常に困る状態であった。「いやいいから!」と言うと「いいの? 大丈夫よ?」と娘が言う。あんたは大丈夫だろうけど私は全然大丈夫じゃないの!
これは、一刻も早く体勢を立て直さなくては!とは思うものの、なかなか不随意なのがもどかしい。
そうこうしているうちに、ドアを叩いていた人が、今度はドアに体当たりを始めた。いや~! もうやめて~。
あの、もう、お気持ちだけで結構ですから~!!
と叫んでも、やっぱりサイレンにかき消される。一体いつになったらこのサイレンは止まるのか?! 嫌がらせか?!
第一、このトイレはどうしてこんなに広いのだろう? 便器からドアまで、4、5歩はあるだろう。こんなに広くなくてもいいじゃないか!
半分怒りさえ覚えながら、我ながらすごい早さで身支度を整えて、走ってドアを開けた。
するとそこには、人がざっと20人くらい立っていた。驚きながら後ろ手にドアを閉めると、ちょうど芸能人が壁際で囲み取材を受けているような格好になった。ものすごく恥ずかしい。
「え~、ご心配かけてすみません。子どもが間違えて非常ボタンを押しましたので、私たちは大丈夫です。すみませんでした!」
そう大きな声で言って頭を下げると、「な~んだ」という雰囲気が辺りに漂い、人々は雲散霧消していった。
「何やってんの~」
甥が、娘に笑って言う。えへへ、と娘が笑う。えへへじゃないっつうの。
「あのボタン、押したらだめなんだよ~」
姪が、説教口調で言う。そうだそうだ、言ってやってくれ。
それから私たちはまた、動物園の中を歩き始めたが、サイレンの音は止まらない。森の木々の隙間から、いつまでもサイレンの音が聞こえるのだ。猿を見ていても、鳥を見ていても聞こえる。なんだかペナルティみたいで嫌だった。それを見透かしたように甥が「ねえ、まだ鳴ってるね」と追い打ちをかけるのが小憎らしい。
15分経ってもまだサイレンは聞こえていた。3度目に「まだ鳴ってるね」と甥が言った時、私はついに「うるさいっ!」と言って甥を睨んだ。