娘の矜持
世の中には、自分と似た人が3人いるそうである。
自分と似た人に会ったことがある人は、いるだろうか?
私は、ない。それどころか、私は、誰かに似ているとか、似た人を見たとかいう事もほとんどない。
しかし、一般的には他人の空似はままあることで、私もたまに人違いをすることがある。たいていは良く見たら全然違ってた、という事になるのだが、いくら見ても、どうしても本人としか思えない、というくらいの人違いをしたことがある。私がまだ学生の時の話である。
夕方、阪急大宮駅のホームで、私は大阪方面に向かう電車を待っていた。
直前に電車が出たばかりで人も少なく、帰宅ラッシュにはまだ少し間があるという中途半端な時間で、ホームは閑散としていた。私はベンチに座ってぼんやりしていたと思う。
と、遠くから2人、こちらに歩いてくるのが見えた。中年のカップルのようである。
女性は真っ赤なスーツに真っ赤なピンヒール、髪型はソバージュで小太り、ちょうどあべ静江のような風貌であった。
その彼女が傍らの男性の腕に絡みつくようにして歩いてくる。
何だか濃い二人だなあ、と思って何気なく男性を見た。
父であった。
え、私、親の不倫現場を目撃してる訳?!
私は驚いた。信じられなかった。どこかが父とは違っているだろうと思って遠目ながら子細に男性を観察したが、顔はもとより、背格好、髪型、服装、すべてが、福岡の実家にいるはずの父そのものだった。微妙にダサいスラックスに、きちんとインした長袖ポロシャツという着こなしも父にしか見えないのだ。娘としての矜持が揺らぐ。
だめだ、見た目で判断できない。そう悟った次の瞬間から、私は怒涛の自問自答を始めた。あべ静江のピンヒールがたてる「コツ、コツ」という音がシンキングタイムのBGMだ。
「いやでも、娘がいるって分かってる街に、不倫旅行で来るかな~?」
「京都って言っても広いよ? ばったり会う確率なんて相当小さいでしょ。それに彼女に『京都行こうよ~♡』ってねだられたら、そりゃあ、行くんじゃないの~」
「そもそも、お父さんがそんなモテる訳なくない?」
「いやそれは、私が知らないだけの話でさ。行くとこ行けばモテるのかもよ?」
「お金もそんなに持ってないのに?」
「そこは、蓼食う虫も好き好きでしょ」
「大体さ、お母さんと全然タイプが違うやん!!」
「それが不倫の醍醐味っていうよ? お母さんと同じタイプがいいなら、わざわざ危ない橋渡らなくても、お母さんでいいじゃん」
「第一、何で大宮なの? 河原町とか烏丸なら分かるけど、大宮って! 不倫するなら嵐山でやってよ~」
「それは…なんでだろうねえ?」
説明すると、河原町は言わずと知れた京都の繁華街、烏丸は京都駅に向かう地下鉄との乗り換え駅で、どちらの駅も地元の人、観光客、いろんな人が利用する駅だ。しかし大宮と言うのは烏丸の隣駅とはいえ、観光地もなく、ほとんど地元の人しか使わない駅だと言っていいのだ。なぜそんな駅で不倫してるんだ、父よ?
そうしているうちに、二人は私の方に歩いてくる。あべ静江の足音がさっきより大きくなった。あまり凝視してもいけないだろうと思うが、視線はどうしても父に向かってしまう。やっぱり父にしか見えないし、いくら考えても「なぜ大宮なのか?」という疑問以外はすべて自分で解決してしまった。
見てもダメ、考えてもダメとなって、破れかぶれに「あの人は父だ」ということにしてみた。
「それで、私はどうするよ?」
という問いを立てる。
「そりゃやっぱり、お母さんに言わないと!」
「え、そしたら揉めるよ? 家庭崩壊かもよ」
「う~ん、めんどくさいけど、これから離婚ってなってもまあ、中学生じゃあるまいし、大したダメージもないと思うけど」
「でも、それこそ今から揉め事を持ち込まなくてもいいんじゃないの? 私さえ黙っておけば済む話じゃないかな?」
「そうだけど、そしたらなんか、お母さんに悪いような気がするなあ…」
「お母さん、そんな話、聞きたいかな?」
「いや~、どうだろうねえ?」
「それよりも、このことをネタにして、父から口止め料取るっていうのはどうかな?」
「それで卒業までのお小遣いを確保して」
「左うちわな学生生活! 家庭も円満! よし、それで行こう!!」
その時、二人が私のすぐそばまで来た。
父だったら、私を見て無視できるはずがない、絶対にない!!
私は思い切ってグッと父の顔を見た。近くで見ても、父であった。
そして父はチラと私を見た。目があった!
しかし、その目は何の反応も示さなかった。
父じゃなかった…。
へなへなとベンチの背もたれに寄り掛かり、父に似た男性の背中を見送る。一体あなたは誰なのですか…。
私を見て、あの反応は父ではない。その自信はあった。が、すこしばかり揺らいだ矜持が、ダメ押しで実家へ電話をかけさせた。
「あ、お母さん? お父さん、いる?」
「いるけど? 代わろうか」
「いや、いい」
「何それ」
「え~と、ちょっと似た人見かけたから。もし出張でこっち来てたらご飯ごちそうしてもらおうかな~と思って」
「あはは、残念でした~」
はい、確定。あの人は、父じゃありませんでした。
親の不倫現場を目撃したわけじゃなかったという安心感と、何か大きな獲物を逃したような残念さとが一緒になって、私は何とも言えない疲労感に包まれていた。
電車は、まだ来ない。