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思考実験とエフェクッキング~エフェクチュエーション往復書簡 しづのからヤンさんへ③~
前回からの続き
ヤンさん
こんにちは。やっと気持ちのいい季節になりました。京都は先日、時代祭が終わったところで、街には金木犀の香りが漂っています。本当に短い秋です。
とはいえ、もう10月も終わりになろうかというのに、まだみんな日中は半袖を着ています。それどころか街を歩く海外からの観光客は、結構な割合でノースリーブです。真夏と一緒のスタイルです。
ヤンさんがこの街を100キロ歩くころには、少しは寒くなっているのでしょうか。個人的には晩秋から初冬の趣が一番好きです。
さて。
ヤンさんからの書簡を読んで驚愕しました。エフェからのゲノムって、えええ、って感じで、衝撃でしばらく筆が進みませんでした。ロバストとフラジャイルについては感想が長すぎてこの稿から外れてしまうので、別で一編、エッセイを書きましたので、よかったらそちらも読んでいただけたらと思います。
フラジャイル家電とロバスト家電
ともあれ、ヤンさんの書簡を読んでいて思ったのは、エフェには余裕が必要だということです。余裕のことをエフェらしく「余剰資源」と言ってみましょうか。その余裕、余剰資源こそが不測の事態に対応する準備となるわけですよね。
考えてみればそもそも、人というのは両親から半分ずつ遺伝子をもらって生まれてくるわけで、それだけでもう、変化への備えなわけです。片方からそのまま遺伝子を受け継ぐのならクローンなわけですから、変化に対応できなければ全滅してしまいます。半分ずつもらうことで両親のどちらとも違う新しい個体が生まれ、結果として生存確率が上がる。これは戦略として実に理にかなっていると思います。どれが生き残るかは分からないけれど、出来る限りいろんな組み合わせの遺伝子を残していくというのは、エフェでいうと「手中の鳥」を増やしていると言えるのかもしれません。
個々の人体のことを考えてみても、親知らずとか尾てい骨とか盲腸とか、実はあんまり必要ないんじゃないかと思われるものもあるわけです。もしかしてこれは、退化の途中なのかもしれないけれど、なぜか今もとりあえず存在している。親知らずなんて、なぜか後から生えてくるわけです。これらはまさに余剰資源であり、無駄になっても困らないので「許容可能な損失」な部位なのかなと、ヤンさんのお手紙を読んでいて考えていました。
いつか人類が絶滅してしまうような環境変化が起きたとしても、誰かが生き残るかもしれない。そのためにできるだけ多彩な遺伝子を持つ人間が生まれるようにして、しかるべき時にあらゆる準備をしている。それが種の保存というシステムですよね。
誰が、どの遺伝子が生き残るかは分からない。人は、人類という大きな枠組みで見た時、一人一人が手中の鳥であり、余剰資源でありまた、許容可能な「損失」になりうる存在でもあると言っていいのかもしれません。
また、種の保存のシステムを持っているのは、ご存じの通り人間だけではありません。地球上のあらゆる生き物が種の保存のために生きているといっていい。
ここでもう一つ私が考えたのは、種の保存は何のためにしているのかということです。そうして、かつてこの地球上を支配し、そして滅んでいった種のことを思いました。例えば恐竜。
今は人間がその座についていますが、いつか何かにとって代わられる時が来るかもしれません。その時のために、地球上のあらゆる生き物が種の保存に励んでいると考えると、なかなかスリリングです。地球上の生物、というさらに大きな枠組みで見た場合、それぞれの種が余剰資源であり許容可能な損失な存在と言えるわけですよね。
地球上で何かしらの生物が生き残っていけるように、ゲノムは作動しているのではないか、と考えた時、それは誰が、何がそれを意図しているのか、という思いに至りました。私たちは「誰の」手中の鳥なのか。
地球上に生物がいなくなってしまったとしても、誰か困るのでしょうか?いなくなる側の私達からしたら困るに決まっているけれど、その後の世界は、分からないけどなんとなく誰も困らないんじゃないかなあと思うわけです。私たちは月に生物がいなくても、特に困ってはいないわけで、多分、月からしてみても、地球から生物がいなくなっても特に困りそうにないなと思うんです。いや、月は近すぎるから、もしかして生物の重みがなくなると重力に影響が出るとか、なにかあるかもしれませんけど。分かんないけど。
ところが、もしかして消滅しても困らないかもしれない種の保存のために、本当に精緻なシステムが構築されています。それは最近の研究で明らかになってきていますよね。その驚くべきシステムを知れば知るほど、そこまでする意味がなにかあるのかと思うわけです。
ここまで考えた時、これはやっぱり何か、人よりももう一段上の、メタな存在があるんじゃないかと思えてきてしまうのです。
昔の人はこのことを神という名でラベリングしていますが、それは実に自然なことだと思います。どう考えても、人知の及ぶところじゃない作用が働いているわけですからね。
でも、科学が発達していない時代の人がそう考えるのは自然なことだと思うのですが、ここまで科学が発達した時代、科学的な事実を知れば知るほどメタな存在を思わずにはいられない、つまり結局は昔と同じ思考結果に帰着してしまうということに、我ながら驚きました。
地動説を当然のように知っている現代、さすがに中世と同じ思考ではありませんし、軽々しく宗教と結びつける気は毛頭ありませんが、まあ、そんな存在があってもおかしくないんじゃないかと思うようになりました。2次元の事物が3次元のことを知らないように、私たちも4次元以上の次元を知ることはできないのでなんとも言えませんが、ないよりはあると思っておいた方が面白いかなあと、そんな風に思いました。そうして、異次元の存在はもしかしてエフェの原則を使っているのかもしれない、あるいはエフェは次元を超えて存在する原則なのかもしれないと、そんな風に考えてみるとちょっとワクワクしました。すみません、うっかり考えすぎてしまいました。
閑話休題。
そうそう、ワクワクすることは何か、と質問を受けていましたね。ワクワク。さてさて。
考えてみると、ヤンさんのように長い時間ワクワクし続けるってことはないなあと気が付きました。例えば恋人が出来た時のような、一日中ワクワクしているような対象は現状では持ち合わせていません。
ワクワクは瞬間的に、ワクワクというよりは「ワクッ!!」とする感じです。最近それを強く感じた瞬間は、エフェクチュアルクッキングの時でした。
エフェクチュアルクッキングは、私たちが受講しているエフェライフ講座の、初のリアルイベントでした。エフェとクッキングがどう関係あるのか良くわかっていないながら、説明ではエフェの5つの原則を体感できる、ということでした。原則を体感できるというのがそもそもどういうことなのかも、今一つピンと来ていなかったのですが、とにかく行けば分かるだろうと思って参加しました。
いよいよイベントが始まり、たにせんさんがエフェクッキングのルール説明をしてくれました。
①参加者を2つのチームに分ける
②一つのチームから数人ずつ順番に出て、1番から5番まで、リレー形式で料理をする。
③調理時間はそれぞれ15分。時間が来たら料理が仕上がってなくてもそこで終了。
④作りかけの料理を特に引継ぎもせず次に渡す
⑤最後の組がすべての料理を作り上げること
⑥材料はそこにあるものを使うこと。最終的に使い切ること。
これを聞いたとき、特に③以降の話を聞いたとき、「これは!!」とワクワクしました。エフェクチュアルクッキングの全貌がやっとハッキリ理解できたのと、何か面白いことが始まる、という思いで、顔がにやけていたと思います。
私の出番は4番目でした。アンカーの一つ前です。最初の組がキッチンに入ったとき、きちんと成り行きを見ていないと大変だぞ、と思ってみんなが作業する様子をじっと見ていました。最後から2番目ということは、あらかた料理を仕上げて、あとは盛り付けだけという段階まで持って行かなければならないだろうと思っていたからです。
でもそれはもう、5分としないうちに諦めました。人の動きが多すぎて無理です。エフェは結果を予測する必要はないということを思い出し、だから料理のことは、自分の番が来た時に考えようと思いました。
そんな先のことをあれこれ考えるよりも、目の前には会いたかった講座生が沢山いるんです。黄色い本の著者の吉田先生もいらっしゃるんですよ。このチャンスを逃してどうする、という感じです。今できることをしないと!…とまでは思いませんでしたが、とにかく私はひたすら楽しく、自分の番が来るまで雑談に興じていました。ここで私は吉田先生とつながるきっかけを得たり、その後、成功裡にクラウドファンディングを終えることとなる「目薬ケースプロジェクト」について話し合ったりと、「雑談」といってもそれは、とても有意義な時間でした。
さて、いよいよ私の出番が来ました。勢い込んでキッチンに入ると、私の前に料理していたたにせんさんが鍋を指さして
「これ、カレーリゾットなんだけど、ワイルドな味なの。なんとかして」
と言って去っていきました。指さされた片手鍋には黄色いスープの中に、ご飯とやけに大きなニンジンが見えました。どうやらこのニンジンの大きさからして、初めからカレーリゾットとして作り始めたのではなさそうです。が、いまやそんなことは問題ではありません。味です。ワイルドな味をどうにかせよ、という命題があたえられたからには、どうにかしなくてはいけません。盛り付けするだけ、の段階まで持って行かなくてはならないのですから。
ヤンさんは「ワイルドな味」と聞いてどんな味を想像しますか?私はやたらとスパイシーな味を想像しました。しかし味見をしたところ全くスパイシーではなく、むしろ何の味もない、といった方がいいような気がしたので、めちゃくちゃ混乱しました。ワイルドな味を何とかしなくてはならないのに、そのワイルドな味、というのがこの場合何なのかが分からないのです。
「ワイルド…???」
私は何度も味見をして、考え込んでしまいました。この時の様子はかなり周りの人の印象に残っているようで、頭を抱えている様子が写真に撮られていたし、イベントの後で「めっちゃ何回も味見して、首傾げてたやん」とも言われました。首をかしげていた自覚はないので、言われて「ああそうなのか」と思った次第です。
ともかく、なんとかする対策を立てようにも現状把握が出来ないわけで、これは困りました。
鍋を前に考えてばかりで、時間は刻々と過ぎていきます。これはまずいと思って、途中で「ワイルド」という言葉は忘れることにしました。ともかく現状はイマイチで、美味しくもなくまずくもない。昔、全国どこで食べても同じだった、高速道路のサービスエリアで出ていたようなカレーの味なわけです。これを美味しくするにはどうすればよいのか。
私が出した結論は「コクを出す」ということでした。それでキッチンを歩き回って食材を探し、コクが出そうなベーコンとチーズを入れてみました。でも結局何も変わらず時間終了。敗北感を抱えて最後のメンバーに、たにせんさんに言われたこととほぼ同じことを言って、キッチンを出ました。
結果として、このカレーリゾットは最終組のおかげで見事に美味しいものになっていました。試食の前の総括で分かったのですが、最後の組がしたことは、「カレー粉を足す」だったそうです。それが正解だったのかと、しみじみリゾットをかみしめました。そしてやはり、この料理はリゾットを目指して作り始めてはいなかったということも分かり、全体を通して最もエフェクッキングを体現した一品となったようでした。
さて、エフェクッキングをやってみて、何がどうエフェだったのか。5つの原則を体感するとはどういうことなのか。これを検証してみたいと思います。
まず、手中の鳥の原則。これは今回のエフェクッキングで最も強く体感した原則でした。何しろ、そこにある材料を使う、ということで分かりやすく手中の鳥が提示されていました。そして、「手中の鳥」は物だけを指してはいません。自分は何者か、何を知っているか、そういうことも手中の鳥です。
私は主婦です。日々、家庭で料理の主導権を握っています。今回も自然とリゾットと格闘していました。面白かったのは、やはり普段料理をしない人は「自分は何をすればいいですか?」と周りに聞いていたということです。
それから、私がいざ料理を始めたとき、具体的にはカレーにコクを出そうと思ったときですが、まず現状では何が足りないのか、そして足りないのはコクで、何を足せばコクが出るのか。これらを考える素になったのは、全て私の経験からくる知識でした。つまり「何を知っているか」。未知の事柄に対応するとき、私はまずは、自分の知っていることを材料にして思考していくしかないということを体感しました。脳内で、手持ちの知識のカタログを、バーッとめくって行くような感覚がこの時はありました(そこで「カレー粉が足りない」ということに気が付かなかった自分には苦笑しかありませんけれど)。
「自分は何を知っているか」というところから動いていくという事例は他にも、たこ八の垣内さんが自分の番の時に「これコーゼーションちゃうん」と自問しながらも、やっぱりたこ焼きを焼いていたということが総括の時に紹介されていました。
「人は手の中にあるものからしか動けない」という手中の鳥の原則。これがまず体感的に理解できたことでした。本当にこれは体感もしたし、痛感もしました。
それから許容可能な損失の原則。これは私の場合、チーズもベーコンもそこまで大胆には入れなかったということになるかなと思います。沢山入れることによって、どうしてもまずくて食べられないものを作るのは避けたかった、という気持ちの表れだったと思います。実際、狙い通りにコクは出なかったけど、食べられないというほどまずいものにもなりませんでした。これが良かったのかどうかは分からないけれど。
実は一発逆転を狙って、うまみと塩味を併せ持つ塩昆布をいれたらどうだろうと思ったのです。が、これをすぐには実行せず、参加していたプロの料理人であるこばこばさんにお伺いを立てました。塩昆布がダメだったら許容可能な損失の範囲ではなくなるかもしれない、という思いが無意識にあったのだと思います。はい、止めていただいて感謝しています。
レモネードの原則については、これはもう、目の前の作りかけの物を美味しいものに仕上げる、ということそれ自体がレモンとレモネードですよね。そして、いろんな人が関わることで作り始めた時には思いもしなかった料理が仕上がっていく、というのはクレイジーキルトの原則そのものです。最後のパイロットの原則は、主体的に事態をコントロールしていく、何とか美味しいものにしていこうという思いと行動に表れていたと思います。
終わってみれば、みんな何かしらのエフェの原則を使ってイベントにコミットし、笑顔で食事をして仲良くなっていました。ワクワクするのはいつも未知のものに対してですが、ワクワクするか気分が塞いでしまうかは、その未知に対してプラスの感情、希望のようなものがあるかどうかなのではないでしょうか。結末がどうなるかは予測しなくてもいいのですが、ことに臨む時の心情、つまり「面白そう」と思うか「嫌だな」と思うかが、ワクワクするかどうかの分かれ道なのかなあ、と、そんなことを思いました。
今のところ私がワクワクするのは、こうした一時のことが多いのですが、本当はもっとこの「何にワクワクするか」を掘り下げると、例えば「誰かを笑顔にすること」にワクワクするという人もいると思うんです。そうすると、誰かが笑顔になりさえすれば手段は問わないので、料理でも、エフェでも、ほかの何かでも、いろんなことがワクワクの種になって、それこそ生きている間はずっとワクワクしているのではないかと思います。
何に対してワクワクするか。これはやはり手中の鳥の原則で言われている「自分は何者か」を突き詰めて、自分の価値観を自覚することから始まるのでしょう。おそらくそれが、最終的には人生のミッションを見つけることにつながるのではないかと思います。
この稿を書いてる今、ふと思いました。一時のワクワクと一生のワクワクの違いは、他から与えられる対象か、自分から求めていく対象かの違いではないかと。受け身か主体的か。
もしこの考えが間違ってないなら、一生のワクワクの種を見つける鍵は、飛行機のパイロットの原則を使って日々を動いているか、という点にあるに違いありません。
さて、これに気がついた「一時のワクワク」しか持ち合わせない私は、ワクワクの種を探しに行動あるのみです。もし一生のワクワクの種が見つかったら、この先毎日ワクワクしながら過ごせるわけで、それは幸せな人生そのものですよね。そんなことに思いが至った今、私はちょっとワクワクしています。
たにせんさんは毎日、この「手中の鳥」を書きだす作業をしていると聞きました。毎日ってすごいですよね。私も毎日とまではいかなくても、植物に水をやるように、鳥を洗い出す作業をやろうと思います。
ヤンさんは、自分に向き合うようなエフェのワークを意識的にやっていますか?もしやっていたら、そのやり方など紹介してもらえると嬉しいです。
そんなわけで、長くなりましたが今回はこの辺で。ちなみにですが、エフェクッキングの時、料理するのは全体的に女性が多かったのですが、終わって片づけをしているのはほぼ男性だったのが興味深かったです。「料理はしてないからこれだけは!」みたいな勢いで、皆さん鍋やお皿を精力的に洗っていたのが印象的でした。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。ではまた。