夜道に咲く花
夜道は危ない、と知ったのは大学生になってからだった。それ以前の私にとって、夜道は単に恐ろしく孤独なものであるだけで、危険なものではなかった。
街灯の少ない空にはぞっとするほど星が光っていて、隣に恋人でもいれば「綺麗だね」なんて言ってキスなんかできちゃうくらいの雰囲気で、でも私はたったひとりで、世界中の孤独を全部背負ったような顔をして、夜を徘徊していた。
実際、そんなに頻繁には徘徊していなかったはずなのに、毎晩彷徨い歩いていたような気がする。あの頃私は、精神的にはずっと夜道にいたのかもしれない。どこに続くかわからない、いつ朝になるかもわからない、人気のない道を、ひとりで歩いている気がした。痛々しい憂いはひた隠し、へらへらするたびに心がすこしずつばらばらになって、気づいたときには床がガラスだらけになっていた。踏むと痛くて、きらきらと光った。綺麗だと言葉にした瞬間に、すべて醜くなる気がした。
大学生になっても、危ないから、と送ってもらうことの意味が、最初わからなかった。私にとっては夜よりもあなたのほうがこわいのに。何が危ないのだろう、とぼんやり思っていた。いまになって思う、私は無自覚のうちに守られていただけだったと。
大人になって、東京の夜がこわくなったとき、私はもう生きていけないと思った。夜道が味方でないのなら、ここに私の居場所はないと思った。道ゆくひとすべてが怖かった。すべてが、暗闇を蠢く悪意に見えた。あのとき、ただしく守られていたら、と時々考える。後悔ではない。深い夜と同じ色の記憶。きっと、私が知らない東京の夜だってたくさんあったのに。
東京の夜、という言葉だけで、エモくなってしまうような世界なら、今すぐ崩れ去ってしまえばいい。
かなしい事件が起こるたび、人間について考え、思考を書き起こすことを、最近意図的にやめている。その事件の当事者であるか部外者であるかによって、生まれる感情や書ける言葉は異なるから。いたずらに象っていいものではない。この世に真実なんてひとつもない。あるのは主観と解釈だけで、それを語る側は業を背負う。重い十字架を背負って磔の丘に向かって歩いている感覚が、ずっとある。いつかこれを下ろしたら、綺麗な海が見たい。きみと。
言葉にならなかったかなしみやくるしみでできた星、その上に立っている私たちは、やっぱり、伝えていかなければならない。伝えることを諦めてはいけない。伝え合うためにことばがあるのだとしたら、どんなにくるしくたって、ことばを刃にしてはだめだ。
夜道を歩く。心臓を抱きしめて歩く。こわくない、こわい、こわくない、こわい、背中合わせの夜の闇。すれちがうひとすべてが、こわくなってしまったのはいつからか。差し伸べられた手が刃に見えて、仕方なくなったのはいつからか。優しさで差し伸べられた手を、私は一体どれだけ振り払ってしまっただろう。
東京はつめたい、東京のひとはこわい、そんなのまやかしでしかなかった。どこにいたってひとはひとで、つめたいひとはつめたいし、こわいひとはこわい。そしてそれはすべて、自分の感じたことに過ぎない。体温がちがうものに触れれば違和感がある。考え方がちがうものは異質に感じる。過去のバイアスがかかった今。経験のみでしか物事をジャッジできない頭。ひとはいつも愚かで、さみしくて、でも、やっぱり美しい。そうでなければ、この世界が存続することになんの意味があるだろう?
世界中のすべてが敵になっても、夜だけは味方だと思いたい。孤独に耐えうる理由がほしい。誰といても結局ひとはさみしいのだから、私はあなたと一緒にさみしくありたい。私の夜はあなたがいい。
いつか拾いそびれたガラスの破片が、私を見上げて笑う。拾い上げて私も笑う。流れた血で文字を書く。深い夜と同じ色。あの頃とはちがう夜道に、ちがう花が咲いている。かなしみも孤独も抱きしめて歩く、朝が遠くで欠伸をしている。
ひとは孤独で、孤独は夜で、夜は綺麗で、だから孤独は美しい。私も。きみも。あなたもだよ。