傷も輝きのそのひとつ
一番怖いものは何かと聞かれたら、「絶句」と答えるかもしれない。
何もかもが怖くなると、私は言葉をなくしてしまう。伝えたかった言葉は行き場を失い、ゆっくりと心を殺してしまう。
今私は、何もかもがすごく怖い。何が怖いか考えようとするのも、考えないようにするのも。どうにかしなきゃと思うのも、どうにもならないと思うのも。ついた傷に触れるのも、無理やり絆創膏を貼って見えなくするのも。全部、怖い。
かつて、怖くても逃げちゃだめだ、と思っていた時期がある。でもそこで、私は一旦壊れた。
それから、怖かったら逃げていいということを学んだ。危険を感じたら逃げようとするのは生き物の本能で、それに逆らおうとしているのは人間だけだということに気がついた。
でも、23歳になった私は、どんなに怖くても、逃げたくないことがあると気づいてしまった。傷ついても失いたくないものがある、と思ってしまった。ここでついた傷はここで治すしかない、思った。
いや、違う。ここで「治したい」と思った。
*
それでも、何もかもが怖いことは怖いことに変わりはないから、まず「怖くなってしまった」ことを受け入れようと思った。怖くなってしまった、の後に続く「どうしよう」を、まずはなくそうと思った。怖くなった原因をいつまでも考え続けるのもやめた。もう十分すぎるくらいつらくなったから、これ以上つらくなることはない。
ついた傷は傷として受け入れよう。ただ傷ついたもうだめだ、で終わるほど、私は弱くない。そう、強がった。
今、怖くないことは何かを探そう。そう思い、外に出た。まだ5月なのに、夏みたいな暑さだった。暑さの性格は、地元と大分違う。こっちの暑さは幾分、粘度が高い気がした。
必要な手続きをするために役所に行くと、80分待ちだと言われた。かなしくなるところだったけれど、こんなこともあろうかと文庫本を一冊鞄に忍ばせていたので平気だった。でも実際は本を読まず、考えごとに耽ったり、スマホのメモに文章を書いたりしていた。
不本意な状況に置かれた時、咄嗟に「でもこの状況を不毛にはしない」と思えると、自分のことを少しだけ褒めてあげたくなる。待ち時間が長かったらその時間に出来ることを考えたらいい。行く予定だった店が閉まっていたら別の店を探せばいい。それだけのこと。
そうか、この傷だってそうか。傷ついたら、どうやって治すかを考えたらいい。傷から得られるものがあると、私はきっと思いたい。
役所を出ると、既にお昼を過ぎていた。少し遠いところに気になるカフェがあったので、初めての道を歩いて向かうことにした。道中、色んなものを見た。排気ガスにまみれた路上に咲く紫陽花。高架線の下にある、狭くて暗い歩道橋。
これを誰かに見せたい、伝えたい、と思うことは、まだ怖かった。本当は、そうしたかった。それに気づけただけでも良かった、と思うことにした。考え始めると苦しくなりそうだったので、苦しくなる前に写真を撮った。手が震えて、紫陽花の写真は少しぶれた。一瞬迷って、そっと撮り直した。
初めて入るカフェは、開放的でおしゃれだったけれど、ひとりで来ているひとは少なかった。でも、ひとりでカフェに入ることは怖くなっていなかった。よかったと少し安堵して、美味しそうなホットサンドを注文した。注文を待つ間、何なら書けるだろう、何を書きたいだろう、と考えていたら、気づくとこのnoteを書き始めていた。
書くことは怖いし、それを発信することも怖い。誰のために、何のために書いているんだろう、全部無駄なことなんじゃないか、と思うと息が出来なくなる。でもそれ以上に、書きたいと思う。書き続けたいと思う。
私はここで生きている、と自分に言い聞かせたいのかもしれない。大丈夫だと、確認したいのかもしれない。そしてそれが誰かに届けばいいと、祈りのような気持ちを抱いている。
隣の席の恋人らしき男女が、1つのケーキを幸せそうにシェアし始めた。せいぜい幸せになりやがれと思いながら、私は薄まったアイスティーを、音を立てないようにすすった。
日が差し込む席で、目を閉じて祈った。
明日は今日より、色んなことが怖くなくなっていますように。
この傷が、私を守るものになってくれますように。
――読んでくれて、ありがとう。良い夕方を。