『傷つけ合うのは当たり前だよ、僕らは不完全な多数なんだ』
人として人と生きている以上、傷つけ合うことからは逃れられない。
私がひとりで傷ついているのと同様に、私だって恐らく知らぬ間に誰かを傷つけている。
傷つくことで誰かを傷つけてしまうから、極力傷つきたくはないのだけど、傷つきやすい心を取り替えることはできず、「フォスフォフィライトかお前は」と思いながら何度も何度も傷を負う。
どうしてそんなことが言えるんだろう。
どうしてそんな簡単に人を陥れられるんだろう。
どうして?
でも優しさの定義なんて人によって違うのだから、私が正しいわけでも、間違いなわけでもないのだ。そうやってまた傷を背負う。静かに微笑むか茶化して終わりにしてしまう。
「あなたは怒らないから、優しいから、”この子には何を言ってもいいんだ”って思われてしまうのよ」
昔、先生から言われた言葉を思い出す。じゃあ怒ればよかったの?そんなこと言われたくないよ、かなしいよって言えばよかったの?そんなこと反論できない子供だった。
大人になってもそうだ。否定しないことと拒否できないことはイコールではないのに、うまく伝わらない。否定したくないけど拒否したいことはあって、でもそれが伝えられなくてかなしい思いをする。そのときだってほんとは「くそ!」と思うのに、言えない。傷つけたくない。傷つけるくらいなら己を傷つける。
***
ひとはこんなにも違うのだ。
傷つけ合うのなんて当たり前だ。
神は完全な一体より、不完全な多数をこの世につくりやがったんだから。
傷つくことには慣れたはずなのに、やっぱり傷ついていることを感じると、私にもまだ人間味が残ってるな、と思う。
努力して得たものを軽んじられた時、舐められた時、自分の好きなもののことを否定された時は、ひどく傷つく。傷つくし、私の努力も知らないくせに、そんな刃で襲いかかってこないでよ、と叫びたくなる。大人なので叫ばないけれど。悔しい、悔しい、悔しい、本当はすごく悔しい。本当のくるしみは小説になどできない。
ポエマー気取りだと嘲笑われるのが嫌で仕方なかったあの時、いっそ堂々と「詩人」を名乗ろうと決めた。
色々なものを持っていないことを憐れまれた時、言い返すのではなくて、持っていないものを得られるよう努力しようと決めた。
水面下で泳いで泳いで、足を攣ったとか手を怪我したとかそんなこと全部隠して。ガチャって言葉に甘んじてたまるかと思ったし、かわいそうだという人にだけは負けたくないと思った。
だからこそ、努力して得たものに対しての攻撃に、私は弱いのだと思う。
人間味があってかわいいじゃん、と脳内で誰かが囁き、そんなことで傷ついてたら生きていけないのよ!と誰かが反論する。相変わらず忙しい脳内だ。
***
こんな弱い私だけれど、最近また新しい出会いがたくさんあって、すごく懐かしい再会もあって、日々は目まぐるしく、秒速で過ぎ去っていく。
思い出してもらえるのは幸せなことだと思う。私も色んな人のことを思い出す。まだここにない出会いも、今のここにある出会いも、自分が大切にしたい人のことを、ずっと大切にしていたいと思う。
傷つくことからは逃げられないね、だって人と生きてるんだから。
だから、傷を飼い慣らす方にシフトするしかないんだよ。
笑いたきゃ笑えばいいよ、
好きなだけ言えばいい。
誰も知らぬところで傷ついて、
誰も知らぬところで濁流を泳ぎ切ってやるから、
いいよ、もうなんでも。
私は私が大切にしたいことのために忙しいんだ。
私は私が大切にしたい人と生きるよ、それだけは譲れないよ。
銀行でもらった書類の職業欄に、夕暮れと夜の狭間に住む小説家です、と書いて、破って捨てました。そのひとひらが街に降って、それを綺麗だと思ってくれたあなたが、どうか今宵幸せでありますよう。
2022.05.16