タコピーの原罪に関する備忘
ドラえもんやプリキュアといったアニメに出てくる「家庭」は、どうして当たり前のように仲良しなのだろうと思っていた。
幸せな家庭に生まれた子供は、得体のしれない生き物と出会うことで、+アルファの幸せを手に入れていく。基本的な幸せが0になることはない。家に帰れば母がいて、夜は家族で食卓を囲む。
あまりにフィクションじみている、と思っていた。
タコピーの原罪を初めて読んだ時、ああ、こういう地獄こそノンフィクションだよなと思った。ドラえもんと同様の舞台である「空き地」、同様の設定である「不思議な道具」。でも主人公の「しずかちゃん」は、タコピーの道具を使っても中々幸せになれない。
彼女のいる状況はあまりにも悲惨だ。彼女の父親は家を出ていき、母親は夜の仕事で中々家に帰ってこない。学校では友達にひどいいじめを受けている。そのいじめっ子の父親と恋愛関係にあるのが、主人公の母親という始末。
救いようがない、という感想で溢れかえるSNSを眺めながら、まだ世の中はぎりぎり健全だと思った。一般的に「救いようがない」状態が恒常化した時、人はそれを「日常」だと認めざるを得ない。心を守るにはそうするしかない。だから、救いようがないという感想が多数を占めているうちは、まだ人は不幸に慣れきっていない。至極健全である。
元々幸せな人間は幸せになりやすい。これはこの世の真理だと思う。家族仲がいいほうが、裕福なほうが、顔が美しいほうが、幸せになりやすい。
幸せ、という定義も曖昧だが、「幸せではない」人間が幸せになるのは、すごくハードルが高い。本人の努力も周りの支えも運もタイミングも全部大切で、しかし何を成しても「幸せを感じる感度」が故障していた場合、幸せになれない。ひどいアイロニーじゃないか。世界中の人間もれなく幸せになれよ。
この漫画が描くテーマは作者にしかわからないし、私たち読者はそれを考察するしかないのだけれど、
私は「誰のせいでもない、仕方のない不幸」の描き方に心を刺されると共に、「幸せになる」ということの罪深さを実感させられた。
人は幸せになりたいと望んでよいのだし、幸せにしたいと望んでもよいのだが、それはものすごくエゴイスティックで、世界中の人間が同じタイミングで幸せになることはない。
だからこそ、私は、あなたは、あのひとは、何を誰にどう望んで生きていけばよいのだろう。幸せなあなたは?幸せではないあなたは?幸せにするとは?幸せになるとは?
もしかしたら幸せの本質なんて、ほんの小さなものなのかもしれない。
もうすぐ昼休みが終わるッピ。