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私の書き方の根元は

  ある日、ツイッターで、こんなことをつぶやいた。

 「なんとなく、自分が明るいというか、幸せというか、そういうものを書くと、嘘みたいな感じがする、そんな23時。」

 ここではあまり詩を書くことが、今のところないのだけれど、どうにも私は、後悔や、懺悔、喪失と、停滞を、たっぷり練りこむことが多いようで。昔はもっと痛かったり病的だったり、虚無だったり愛だったり、愛は今でもだけれど、そういうものを多く含んでいたり、言葉のリズムや余白の取り方などで遊ぶように、書いていたと思う。それから10年ほど。今は、過ごしてきたものと、見てきたものと、一番大切だったものが、色濃く、出ているように見えた。

 詩も言葉も、それ以外のものでも、なんだっていい、なにかを書くときに、赴くままに書きなさいと言われれば、きっと、今の自分の感情が、色濃く乗るんじゃないかなと思う。私はふと気づくと、そういう書き方をしていることが多くて、何かを練ったりだとか、話の構成だとか、そういうことを考えることがなかった。

 どちらがいいということはきっとないのだろう、読んでいて伝わり、興味深く、関心を惹くのは後者だと思うし、考える分経験値も目に見えてたまることだろうけれど、ありのままの自分を曝け出すという意味なら前者だと思うし。ただ私の書き方は前者で、憧れるのは後者だった。そうやって、自分のことを見てもらいたくて、すごいといってほしいわけじゃない、ただ、理解と承認がほしくて、読んでるよってサインがほしくて、私の存在を、この文字で、言葉で、認めてもらいたくて、たぶん、書いている。

 そうやって書くものだから、本当に書きたいなと思ったものしか書いていないし、それが誰にも興味を持ってもらえなくても、悲しいけど、仕方がないかなと思う。ただその中身は、まぎれもなく今の私なのである。

 そんな中で湧き出る、喪失と停滞に、付随する感情に、幸せとか、楽しいとか、誰かを励ますとか、明るい色が、乗らない。

 詳しく書くことは考えてないけれど、別離はいつだって悲しいもので、それぞれの門出を思って、前向きにとらえることは、あまりにも辛すぎた。そして自分の性格も、まだ数えるほどしかないnoteの中で、その後ろ向き具合を、感じ取れるくらいには、否定的で。もう数年経過していて、振り切れても、忘れても、おかしくもないはずなのに、未だに写真立てを眺めては、泣きたい気持ちに駆られるのだ。

 それでも。私はおそらく、幸せなはずなのだ。

 親から愛情を受け取り、欠けているものもなく、教育を受け、仕事につき、不自由なく生活している。ただそれだけでも、十分に幸せなはずなのだけれど。それを、幸せと呼ばなければ、バチが当たると、思っている自分もいるのである。それは、固定観念としての幸せを、享受している、そのことを忘れて、不幸だとわめきたてるのは、違うと思わなければ、ならないと。だから、今、生きている、そして、今のところ、何者にも脅かされていない私は、幸せなのだと、思わなければならないと。

 「そうでなければならない」と思っているのは、多分、幸せじゃないと、感じているからで。

 たぶん本当に幸せなら、私は書かないだろう。たぶん、それよりも、その幸せに浸っていたくなるだろうし、幸せであるなら、こんな、自慰行為を、誰でもない誰かに承認してもらいたいという気持ちは、湧いてこないはずなのだ。満腹なのに、まだスープを飲みたいとは思わないように。満ち足りていれば、それ以上は求めないはずだから。

 今現在、そうして私は、詩を書いている。言葉を並べている。そこに幸せを盛り込もうとすれば、それはやっぱり理想となるし、明るさを足そうとすれば、それはどうにも違和感となる。時には気持ちが和らいだり、作品としてこうしたいという思いがあったりするだろうし、絶対にそういうものを作らない、ということではなく、ただなんとなく、「作ったな」と思ってしまう。でも、嘘ではない。それは私が書いたもので、私の中から出てきたものだから。だけど、今の私が本当に明るい気持ちでいるかは、また別の話。



 文筆乱れてお目汚し。失礼致しました。

 本城 雫 

 

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本城 雫
いつも見ていてくださって、ありがとうございます。 役に立つようなものは何もありませんが、自分の言葉が、響いてくれたらいいなと、これからも書いていきます。 生きていけるかな。