人に褒められて考えを改めた言い訳と反省文

※2023年9月1日に別のところで公開したものを持ってきました

先に結論を書くと、数年抱えていた問題があり、友人にどストレートに褒められたことで自認識が砕ける衝撃を受け、「卑下慢」という仏教用語に出会ってやっと飲み込めたという話です。

先人の知恵サンキュー

先日、文章が上手いと褒められたと喜んでいると十年来のフォロワーに「えっ 文章上手いよ」と言われ、「えっ 私って文章上手かったの!?」になった。

これが三週間ほど前のことなのだが、いかんせん私は言語化するのが好きな割に得意じゃない、というとまた語弊があるが、別段さっさか出来るわけではないがためにこのような時差が発生している。自分でしっかり噛み締め、反芻し、そこからようやく味について考え始め、さらに考えてから最終的にどう処理したかを書き出し始めるのでとにかく遅いが、これはもう、そういうもんである。

まず前提として、私は度々自作に対するあまりの自信のなさにイラつかれており、どうにかした方がいいんだろうなと思いつつそのままにして数年が経っていた。漠然と、しかし確実に周囲からの評価と自認識で食い違いが発生しているのはわかるものの、それを上手く言語化出来ない。

以前それに対するちょっとした気づきがあったので、分析してみるかと自分なりにまとめて文章を書き始めていたところだった。以下はひとまず考えていた評価と自認が乖離していた理由になる。

「自信がない・(周囲から見れば)自己評価が低い」わけだが、恐らくここに悪魔合体しがちな自己肯定感になると話が変わってくる。自己肯定感がある、高い、というよりは「あった方が生きやすいな」と意識的にコントロールしている面も否めない。しかし全てはコントロールが上手いからかというとそうでなく、ベースとして高めではあると思う。

そしてその「自己肯定感はあるが自己評価は低い」が生み出すのが、「尊大な自尊心」、「もっとやれるはず」という自分へのやたら厚い信頼だ。

みんな大好き山月記の「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」、言いたいことはわかる。私も恐らく文章を書く以外のことであれば思い当たることもあろうかと思うが、こと文章作成に関してはさっぱりわからん考えとなる。

これは後に述べる部分に繋がってくるのだが、私は「やってみないことには始まらないだろ!?とにかく己が力量を把握せんことには何をしたらよりよくなるかわからんのでは!?」と言うパワータイプというか脳筋思想なので、わりと積極的に人に文章を見てもらいたがる。

つまりは「高い理想と尊大な自尊心」が組み合わさり「もっと高みはいくらでもある」となり、評価が低くなっていた。
なまじ自己肯定感が高いばかりにこれは自分で評価を改める他ない。

大筋はこのような感じかなと思っていたのだが、「文章上手いよ」と褒められて「えっ 私って文章上手かったんだ!?」になったことで、もう少し解像度が上がった気がする。

というか振り返ってみると頂いた感想(いつもありがとうございます)でも文章を褒められているのだが、文章が上手いという自認識が全くなく、長年自作に対して「大したことがないし、私より文章が上手い人も、私より人気がある人もいる」としか思ってこなかった。この件に関しては一応釈明があるので後述する。

こういった態度は私が書いたものを気に入ってくれた人がいる以上、失礼だとわかってはいるものの自らの認識を改めるのはなかなか難しい。

頑張って書いているのは確かでも、頑張ったからといって必ずしも質が伴うわけではないこともよくわかっている。

高校生の頃、受験のための小論文特訓はしたのでまあそういう意味で「自分の文章の癖を考慮したメソッド」はあるがこれは小論文でしかない。もっといえば、それをいつでも活用しているわけでもない。

小論文は究極「なんか上手いこと言いくるめて読んでいる人間に無理矢理納得させる」ことが出来れば良い。さらに「どういう人が読むのか」という視点が加わることで展開の仕方が変わる。相手にそこで論じている内容自体を伝えたいのか、自分を見栄え良くする術を持っているのを伝えたいのか、自分の技巧および能力を伝えたいのかで書き方は違ってくる。そのため、かなり意図的にコントロールする必要がある。率直に言うと日本語を道具としてどの程度上手く使えるかを表現しているに過ぎない。

私の頭の中や何も考えずに出力した文章に最も近いものといえば映画の感想で、あれでも多少取り込んだものを分解し再構成しようという意思がある方。もっと脳直になるとLINEやチャットなどになり、支離滅裂になることも多い。基本的に言葉で考えているので、きちんと思考として成立していないままでも出力出来てしまうため起きる致命的な不具合とも言える。概念で物を考えてから言葉に翻訳しながら話すタイプだと恐らくこうはならない。

受験に用いる小論文は日本語を道具として使える(論理的思考が出来る)と示すためのパフォーマンスなので、言わばデモンストレーションでしかない。

小説はその点で行くとショーであり、ある種のエンターテイメントとして成立している文章のことだと思う。

大学ではとにかく文章を書く機会が多く、「日本語が書けている」というお墨付きはもらっているがまあそれだけだった。

この「日本語が書ける」はどういう意味かと言うとQuizKnockの河村・拓哉さんのインタビュー(「20年、僕は日本語が使えていなかった」河村拓哉が語る創作のルーツ https://web.quizknock.com/kawamura_interview_2 )が非常にわかりやすく、氏が言う文章の完成度ほどではないにしろ概ね指すところは同じだったりする。

しかし、日本語が書けたところで今お読みいただいている通りエッセイ等の類は苦手で、小説も自己流にすぎない。

そんなわけで文章が上手いという意識が全く無かったというより部分的にしかなかったという方が正しくはある。そしてそれも相対的なもので、絶対的に上手いとは思っていない。

文系大学生は先にも述べた通りとにかく文章を書く機会が多い。文章の上手い下手以前に、書くことに抵抗がないだけで圧倒的アドバンテージがあった。そこに日本語が書けるという能力が加わると無双出来るわけだが、生憎私はポンコツなので語学や暗記が必要な単位では評価がよろしくなかったのも相まって特別優秀な学生とはならなかったのもある。

さらに同人小説は特殊で、別に文章が上手くなくとも良い。
というか同人小説の肝は概ね「キャラクターをどれだけ魅力的に書けているか」だと思う。誰もただ上手い文章が読みたいとは思っていない、それなら商業作家の作品を読めば良いからだ。

文章が上手いにこしたはないにしろ、筆力が必要とは限らない。本当に必要なのはキャラクターを魅力的に書く能力と書き始めるハードルを越える覚悟、話を閉じる執念だけだと思う。書きたいから書くのだが、じゃあどこを着地点とするのか?となるとやはり完成になるだろう。

これらはあくまでも「ある程度のかたまりの文章を人に見せて、人と一緒に楽しむ」ための一つの指標でしかなく、正解がないのもわかっている。ただ私は書いたからには世の同好の士に読んで欲しい!と思っているし、一緒に面白がって欲しい!と思っているので、あくまでも私のスタンスにおいて肝がどこかという話をしている。
書くだけ、人に見せなくていい人がいるかもしれない。

同人小説においては「キャラクターが魅力的に書かれている」の比重が非常に大きいと私は思っている。文章が上手いというのは追加要素に過ぎず、中心にはない。私の意見では。

ただし、一緒に面白がってもらうには相手に自分が考えるキャラクターの魅力を伝えねばならないし、想像してもらわなくてはならない。最低限の言語能力が必要にはなる。
この辺りが上手な人が人気なんだろうなというのは時々思う。

そして重要なのは、これらの判断基準はたいてい巧拙ではなく好悪によるという点だ。

好き嫌いは理屈ではない。だからこそ自分で出力した「こういうの良くないですか!?」という半ばプレゼンのような文章を良かったと言ってもらえると嬉しい。これは文章そのものの出来を褒められるのとは少し違う。

話を戻すと、私は感想欲しいですハチャメチャアピ人間なのでありがたくもよく感想を頂く。改めて考えればそこでも文章を褒めて頂いているのだが、友人から褒められて初めて「同好の士からの言葉を全て好悪の問題だと思っている」ことに気づいた。

今になって振り返ると「あっこれ、好悪じゃなくて巧拙の話だな!?」と思う部分もあるのだが、よくわかっていなかった。というか、私個人が「文章上手くなりたい!」などと言いつつ、実際のところ「もう自分の好み(書きたいもの)は変えられないから文章力(キャラクターを魅力的に書く力と文章自体の魅力)で人に訴求したい!」なのだと気づいた。色んな人に読んで欲しい!の表れでもある。

そもそも一緒に面白がってくれる人を探すには広く訴求する必要があるが、私はとっつきにくい、狭く深くタイプの文章を書く人間なので、「たまたま趣味が合う人がいてくれて良かった」になりがちだった。「読んでもらえると嬉し〜です!」などと言いながら十六万字の話や四万字の死ネタを出してくる人間の“我”が強くないわけがない。「たくさん読んでもらえると嬉しい」は本心だが、そこに対して適応・最適化出来ていないことを葛藤しつつも、結局おもねるどころか食べやすくする配慮さえない辺りに致命的な欠陥があり、それをごり押しするための文章力を求めているという無茶苦茶な輩だったわけだ。

ようは、「たくさん読んでもらえると嬉しい」の前提に「こういう推し、良くない!?」というプレゼンが存在していて、たくさん読んでもらうことではなくこちらが目的の核であるため、本質を変えず文章力でシュガーコートして無理矢理口に押し込もうという算段だった。暴力的にもほどがある。
これは根が小学生のような自己顕示欲と集注欲求を抱えているからだと思う。

小論文は訓練すれば訓練するほど上達するし、目に見えて上達しているのがわかる。人に読んでもらい、指摘を受けて修正し試行錯誤するのが楽しい。どこでどう思ったかを聞かせてもらうのがとても好きだ。

ということと自己顕示欲や集注欲求の合体したものが暴力的な文章力への欲求だと思っていたが、先日私の文章を書くことに対する原体験が発掘された。それは小学校一年生の時に書いた作文を担任がいたく気に入ってくれ、わざわざクラスだよりに載せてくれたことだ。いかんせん数十年前の話で本人もすっかり忘れていたのだが親がそれを覚えており、絶対それでしょ!?になった。もはや全て、小学校一年生が先生に見て見て!しているという単純で遠慮も際限もない巨大な自己顕示欲と集注欲求の発現だということで、これに関してはぐうの音も出ない。私は精神が六歳です。

話を冒頭に戻そう。

十年来のフォロワーに「えっ 文章上手いよ」と言われて「えっ 私って文章上手かったの!?」とストレートに聞き入れ衝撃を受けた理由はいくつかある。

まず彼女は私と推しどころかジャンルも被っていない。これが大きい。先程の好悪と巧拙の問題では好悪での判断になりえるわけがなく、間違いなく巧拙の話だと断定できる。まあ文章そのものに巧拙だけでなく好みの問題もあると言われればそれまでだが、それは及第点をとった先の話なので、文章力という意味では巧拙での判断に絞られる。

そして彼女は編集者で、他人の文章を読むのに慣れている。つまりある程度フラットな判断だという信頼性がある。学生の頃からの知り合いで、今さらお世辞を言うような間柄でもない。なので彼女からストレートに文章が上手いと言ってもらえて、えっ!?そうなんだ!?となった。

彼女の言葉をもう少し引用する。

「さっきのツイートの文章だと、情報量があるのにコンパクトだし、視線誘導というか、イメージの連続を滑らかに繋げつつ、その状況のバックボーンとそこから湧き上がるであろう感情に間接的に接続させるの、まじでうまいな~~~と思うよ
私にはとても真似できない」

これは私も「エモーショナルでいい感じの、文章だからこそ出来る表現を書きたい」の意でツイートしているので出来がいいものをお出ししているのは確かだが、ストレートかつ丁寧に褒められて、そうなんだ……と思った。

私は……文章が上手い……!?

ということでさんざっぱら言い訳を述べてきたが、どうやら私は文章が上手いらしい。

まだ抵抗と足掻きがあるので訂正すると、私は文章が上手い!!この際自分に暗示をかけていこうと思う。

ちなみに「大したことがないし、私より文章が上手い人も、私より人気がある人もいる」の件だが、これは私が書いたものをあっさり消す人間なのを怒られた時に出てきた自己擁護の弁で、これを言いながら「私って自分のことをそう思ってたんだな」と再認識するきっかけとなった。これはそうあるべき、の裏返しと言うわけではなく単なる自己評価に過ぎない。楽しく健全であればなんでもいい。私はどうも周囲と自己評価のギャップがかなりあり健全じゃなさそうだなと自らがんじがらめに、こんなことになっているだけだ。

さて、ここでようやく本題となる単語が登場する。多弁オタクはこれだから嫌だ。でも恐らく私の文章が読みたくて読んでいる人しかいないと思うので文量が多いのはいいことだということにしておきたい。(自己暗示)

皆さんは「卑下慢」という言葉をご存知だろうか。高慢などのアレである。

友人に褒められ自己認識をバキバキに砕かれてから、卑下ヨクナイ……ナオスニハドウシタライイ……とこの世の全てがあると思っているネットの海に潜らんとしたとき、目についたのがこの言葉だった。

仏教用語なのだが、解釈が違うのか参考にするサイトによって意味が微妙に異なる。

ざっくり言うと「己の価値を正しくはかれるという驕り」「自分は駄目だと思い込む思い上がり」「自分よりはるか高みにいる人と比べて自分はまだまだだとしながら、安心したり自慢すること」的なものらしい。

ここまでお読み頂いていたらもうおわかりだろう、全部身に覚えがある!!!!!!

何もかもそう!!!!

突然だが皆さんはルンペルシュティルツキン現象をご存知だろうか?ルンペルシュティルツキン現象とは、グリム童話を由来とし、不快に思うもの、不安に思うもの、恐れを抱くものに名付けを行うと既知のもののように思えて安心を得られる、という現象のことだ。

この卑下慢という言葉を知ったことでルンペルシュティルツキン現象が起き、さらにこれまでの点と点どころかもやもやと不定形な違和感、疑問、不理解が一気に繋がった。なるほど!?とやっと飲み込めた。これから消化していければいいなあと思っている。

まだどうも己の力量に関して懐疑的なところがないわけではないのだが、上を見すぎても仕方がないと「卑下慢」の単語一つで頬をぶっ叩かれるのがわかったので自ら己の頬を叩いていきたい。

そもそものそもそもになると、どうやら私の好みは「簡潔でわかりやすく、華やか(豊か)な文章」のようなので、根本的に「好きなものと、書けるものは違う」という事実を受け入れるところから始まる。

道のりは長いが少しずつ飲み込んで消化していきたい。

私は文章が上手い(暗示)

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