見出し画像

ダークソウルと金枝 番外編「魂、その暗きや明るき」

この「ダークソウルと金枝」シリーズその”3”の「魂の本質」について語る箇所に

フィジー諸島の人々は、人間には明るい魂と暗い魂の二つがあり、暗い魂が黄泉の国へ行き、明るい魂が水や鏡に映る、と考えた。

 J.G.フレイザー.『初版 金枝篇 上』.吉川信(訳).筑摩書房.2003 p.200

という引用をしました。
おそらくは、こうしたイメージがゲーム『ダークソウル』のイメージへとつながったのでしょう。

しかしこうして期待させ、別記事にまで引っ張っておいて申し訳ないのですが、『金枝篇』において”暗い魂”という語がでてくるのはこの箇所のみです。(もしあったらすみません)

この部分は、いわゆる何かに映った”人の像”、影や鏡像がその人の魂だとする考え方に言及した箇所です。そのなかでも真っ黒で顔も見えない影と、水面に映るような顔の見える鏡像とでは、それぞれ別々の魂が現れたものだと考えた人々もいたという話です。

しかしこうした”暗い魂”や”影の魂”と呼ぶべきものが普通の魂とは別にある、という考え方はこのフィジー諸島の一部の民族だけでなく、広く世界に見られる考えです。実際『金枝篇』のこの前後の箇所にも、その考えは書かれており、リュカイオン山のゼウスの聖域で影を取られてしまう話や、本編にも書いた影商人の話などがあります。

いずれの場合でも、影がその人の魂だとしながらも、それが失われた(と考えた)場合では即座に死なず、数十日や一年ほどで命を落とすとされました。

また影が黄泉へ行くという考え方も、古代ギリシャに同じようなものが見られ、本編に紹介した「アエネーイス」でも、黄泉へ行った巫女とアエネアスが黄泉へ行った場面では

ふたりは影となり、漆黒の夜闇の中を進んでいった。そこは閻魔大王(ディース)の空(うつ)ろな棲家だった。それはどこまでも虚無の空間だった。

ウェルギリウス,『アエネーイス』,杉本正俊(訳),新評論,2013,p.166

と語られています。

影は時として、その人物の霊的な力、あるいは力を象徴する何かだとされます。影の短くなる正午では、力を大きく失ってしまうマンガイアの戦士に関する記述もあります。これはおそらく、昼間になると魔力を失うとされた、ヨーロッパの魔女や吸血鬼の話を意識した話題でしょう。あるいはアーサー王の騎士ガウェインが、なぜ殊更に強い騎士とされていたのか、という説明でもあると思います。

人とその影

こうした影を自らの存在や力と結び付ける文化は、私たちの身近にも存在し、ファンタジーの忍者などが”影縫い”のような技で敵をその場に止めたり、また小学校の通学路で影踏みなどを巡って、気分を害した、あるいは喧嘩になったといような話で、感覚的にわかってもらえるかと思います。

こうした身近に観察される”影”というものが、人間にしかない、あるいは人か特別な動物しか持っていないという考えは、まま見られる考え方です。

しかし実際、建物や木を見ればそうではないとすぐわかるはずだ、と考えるかもしれません。しかし先ほど述べた”影商人”なる職業は、まさにそうした建物に影を与えるため、人々から影を取ってきて売る職業なのです。そしてある種の聖樹には、その影を回復するために人身御供を捧げたという話も存在します。

そういうわけで固定され、常に観察されている影でさえ本来のものではないと疑う考え方がある以上、森の中や平原の遠くにしか見えることの出来ない野生動物には、影がない、影を持っていないだろう、という疑いは常に生まれうるわけです。

以前に有名になった、「ほろ雪」さんのツイート。勝手に引用してすみません。
どうやらカメラのHDR合成が強くかかりすぎて、地面やこのワンちゃん自身にかかった影が抜けてしまった模様。パッと見でその”存在”に違和感をおぼえるものの、何が足りていないかわかりずらい。

そうした人のみが持つ”影の魂”、”黒い魂”という考えも、実はファンタジーには良くあり、この記事タイトルの元ネタ「魂、その黒きや白き」というのもエルダースクロールズシリーズ、つまり「スカイリム」や「オブリビオン」に出てくる本の名前です。

このエルダースクロールズに出てくる魂石、黒魂石というものは、敵の魂を捕らえ、エンチャント武器の魔力チャージに使うアイテムです。先の「魂、その黒きや白き」という本はその魂石や魂の性質について書いた本であり、人間やエルフ等高等な思考を持つ生き物は黒い魂を持ち、黒魂石のほうでしか魂を捕らえられないと解説しています。

この「スカイリム」世界の本をまとめている、「Skyrim Library」さんのリンクを張っておきます。実際にプレイしてこのエルダースクロールズの世界の中で読んでみることも乙ですが、すぐに読んで確認したい人には便利です。

その他にもこの”黒い魂”のファンタジーでの例は見つかりそうですが、正確な記述をしようとgoogle等でこうしたワードで検索すると、私の左目に宿ったアレや昔の古傷が疼きそうなのでこの辺りでご容赦ください。

陰と陽の魂

そうした明るい魂と暗い魂の例として、日本語の魂を指す語としても一般的である”魂魄”という語の由来も、そうだと考えられます。

この”魂魄”の”魂”と”魄”とはもともと別々の”霊”や”気”を指す語だったそうで、魂のほうは普通の霊気、今にいう魂を指すものと言っていいでしょう。そしてこの”魄”というものは人間の持つ”陰の気”とされ、またこの漢字の別の意味として、月の影の部分を指すものでもあるようです。

”老強者”のソウルと、陰陽太極図。
ダークソウル3のアイテム化したソウルは、巴を描こうとするかのような形をしたものが多いが、”老強者のソウル”はとりわけその姿がはっきり見える。もしかすると、無印時代”人間性”として得ていたダークソウルが、火が陰り差異がなくなったことで、このような姿になったのかもしれない。
あるいは、”高名な騎士の大きなソウル”や”勇敢な勇者のソウル”にみられるソウルの尾が描く形は、人間性にも似る。

簡単な説明として、”魂”が人の精神、”魄”が肉体の力を司るともいわれています。こうした人間の”魂”が抜けたが、”魄”が肉体に宿り続けている場合、人の血肉を求め蘇り”キョンシー”になるとも言われています。
”キョンシー”とは中国版ゾンビとも説明される存在で、顔に貼られたお札によって術師に操られたり、硬直した腕を前に上げたポーズが有名でしょう。

もちろん、こうした”魂魄”という概念を上記の明るい魂と暗い魂の例、鏡像と影という形でそっくり当てはめることは出来ません。この”魂魄”の説明には鏡に映ったり影として見られるなどの説明はないですし、精神と肉体をそれぞれ司るというはっきりした役割の説明も独特です。

ただ人が死ぬと”魂魄”の気が散り、”魂”のほうは散って天へ、”魄”のほうは地中に帰るという説明は、引用したフィジーの霊魂観と重なります。また、”魂”の性質にこれが強くなると怒りっぽくなる。”魄”の性質が強くなると、物思いにふける。という説明も『ダークソウル』における何かを説明できそうです。

物思いにふける、カタリナ騎士ジークマイヤー。
たまねぎ騎士と呼ばれると彼らは憤慨するらしく、某動画でも指摘されているように、カタリナ騎士の気質おおらかとも言われるが、一方では怒りと結び付けられる場合も多い。

魂の祭祀

儒教によると、この気というものが集まり精気となったものが人の魂であり、死ぬとその気が散ると説明されます。しかもその気というものは、通常また集まることはなく、散ってしまえば戻ることがないそうです。

もしもそのようなことになってしまえば、この気というものは世界に拡散し、どんどんと無くなっていってしまいそうです。そもそもそのような気が集まった存在として人の霊魂があるのですから、世に人間というものも生まれないはずですが。

儒教ではこのような事態に対するため、祭祀というものがあると説明します。子孫が心を尽くしてこの先祖の散ってしまった魂魄に祈るとき、この散ってしまった気が再び集まり「招魂」され、そうした子孫の繁栄につながるとされているのです。

そうした祭祀を司る人物として、儒教ではとくにその家の”長子”が重要視されます。彼がこの死者たちを祀らねば、家が絶えてしまうと考えられました。

アノールロンド聖堂内の大王グウィンと、その光を継ぐ長女グウィネヴィアの像。
しかしその右側を見ると、他に何者かの像があったようにも思われる。台座の高さを考えると、あるいは大王グウィン自身より尊ばれたようだが……

現在では、こうした家長制のような社会制度も廃され、時代錯誤と思われるかもしれませんが。しかしいわゆる家の単位で”戸籍”というものをつけたり、そうした家長の元で統制される家族という集団を最小単位として、社会や国を構成していた時代もありました。そうした時代においては、こうした魂の継承の祭儀、信仰というものが、合理性の面からも必要とされたのかもしれません。

ダークソウルと金枝 番外編「魂、その暗きや明るき」でした。
参考、Wikipedia記事 魂魄 より。


あと、「ダークソウルと金枝」本編はこちらから

                       2021/12/12

いいなと思ったら応援しよう!