マンガ版「風の谷のナウシカ」における、火の7日間の考察。
*この記事には徳間書店の漫画書籍「風の谷のナウシカ」のネタバレ、また最新作である「君たちはどう生きるか」を含む他のジブリ作品の内容について記述する箇所があります。
この「風の谷のナウシカ」という漫画の世界を作り上げた原因と言える、「火の7日間」。しかし、この戦争が果たして誰と誰が戦い、どのようなものであったのかはいまいち不明である。
マンガ版の完結から既に30年ほどたつのにもかかわらず、その全容について様々な説が飛び交うものの、未だ決定的といえるものはないのではないか? 私自身、結局はその決定的な答えにはたどり着いていないものの、この疑問を考えるうち、一つそれらしい仮説について考えついた。
それは先日ツイッター(現「𝕏」)にて簡単にまとめたものだが、それをこのnoteの記事におこすうちに、しかし、思いのほかにその仮説が実はこの漫画版「風の谷のナウシカ」のストーリーやテーマを補完する意味を持つ設定だったのではないか、という考えに思い至った。
未だその仮説こそが、「火の7日間」に関する決定的な説だとは考えているわけではない。しかしひとまずこの説を皆様の前に披露し、その厳粛な批判の俎上に上げない事には、この仮説自信がまた研かれることもないように思う。
先日同じく宮崎駿監督の「君たちはどう生きるか」を見てきたものの、その評価にはまだ私自身は一筋縄ではいかない部分を抱えている。
前半のアニメ―ション表現はいうまでもなく見事だが、その後半からの一種何処かから借りて来たよううな安易なシュールレアズム的世界でのことは、いまだにどう評価するべきかわからない。
しかしこうした宮崎駿という作家を評するにあたって、ひとつひとつ彼のいわば積み上げてきたものを十分に眺めてみることは、現代の日本コンテンツ産業を考えるうえで重要な部分だと思う。
さて私の考えている、「火の七日間」の仮説はこうである。
火の7日間の発端は、ナウシカの本編の時代にも火種となったペジテ市に残っていたあの巨神兵の製造設備である。
巨神兵らはそのペジテの巨神兵製造設備を巡って、人間側に反乱を起こした。
それは彼らにとって、その行為が許しがたい人間側の裏切りだったからである。
そして以上のペジテ市を発端とする動乱と、被造物たる巨神兵の反乱、そして高慢な造物主への裁きという構図。これが実のところ、この「風の谷のナウシカ」の本編の物語とリンクしており、そのストーリーやテーマを補完するバックストーリーがあるのではないか。
この物語中最大の謎である「火の7日間」を考えることによって、作品のテーマをより多角的に考えることが出来る構成になっているのではないか、と考えている。
以下には順を追って、その仮説の説明を行っていく。
旧時代の問題
まず旧時代の人々は非常に切迫した状況で、ナウシカの時代における腐海という人工の生命による浄化計画を実行した。
画像のコマでは「火の七日間の前後世界の汚染が取り返しのつかなくなった時」と述べており、件の「火の7日間」の前後そのひっ迫した状況で、腐海の計画やその浄化中の世界での人類たち、そしておそらくシュワの王墓による人類の再生の事を計画したことが語られる。
そして、そのようにいよいよ「火の7日間」が起こり世界が破滅しそうになるという状況について、おそらくその主導的な立場であったシュワの墓主は、こう語っている。
「数百億の人間が生き残るためにどんなことでもする世界」
「有毒の大気(中略)次々とうまれる新しい病気おびただしい死」
「(前略)ありとあらゆる利害調停のために神まで造ってしまった」
「とるべき道はいくつもなかった」
しかし、これらは本当だろうか?
実際のところ彼らには本来、宇宙へ行き他の星に移住できるほどの技術があったことがうかがえる。
なぜならまず第一に、彼らはこのシュワの王墓のような生命の保存技術を持っている。
この王墓がどのようにエネルギーを維持していたのかは不明だが、かなり省エネで動きつづけ、実際千年以上も存在していたという設定がある。ほかにも彼らはヒドラという不死の生命の技術も持っており、数百年から千年程度生命を維持や保存することは可能だった。
そして第二に、彼らはそうして何百年もかけてたどり着いた星の環境を、テラフォーミングしてしまえるだけの力があった。
これは実際に環境汚染によって滅びた地球環境を、腐海によってまさに浄化しようとしていることからもわかるだろう。彼らはその力を他の星でも行って、その環境を以前の地球のような環境へ変えてしまうことが出来たはずである。
そして第三に、実際に彼らはそのような星から星への移動を想定した宇宙船を作りあげていた。
これは第二巻でユパが訪れる工業都市セムという場所を説明するコマだが、ここには明確に旧時代の人類が宇宙船を作って他の星へといっていた設定が明かされている。現在はこのように、その外装の硬質セラミックを剥いで出荷するセラミック鉱山として使われているが、それだけ耐久性のある船であったことはわかるだろう。
この宇宙船には司令塔のような上部の突起があり、また羽根のような部品もみられる。もしかすると、これで宇宙に出た後にどこかの星での戦闘のような激しい機動を想定した船なのかもしれない。
ナウシカの世界では、こうした航空機の技術はまだいくらか生きており、飛行機や飛行船、中には半重力を使っているとしか思えないようなものまで存在している。
彼らの航空技術は、おそらくはそれが宇宙空間のものであれ、非常に発達していたはずである。したがって、実のところ旧時代に人々らには単に地球が滅んでしまっても、人類という種を存える技術を持っていた。
「とるべき道はいくつもなかった」と語るシュワの墓主の言葉は、実のところ被造物である新人類ナウシカらに対する、重要な証言を省いた言い訳のようなものではないのだろうか?
巨神兵について
そのような旧時代人らを、徹底的に焼き尽くした「火の七日間」。これらがまた彼らの被造物である巨神兵によって行われたという事は、作中にかなりはっきりと、そして繰り返し述べられている。
「やめろ闇の子!! 世界を亡ぼした怪物を呼びさますのは止めろ!!」「お前は悪魔として記憶されることになるぞ」とは、まさにこの作中での巨神兵を形容した言葉であり、彼らがナウシカがこのシーンに呼ぼうとしているオーマつまり巨神兵が”世界を亡ぼした”と認識していることが窺える。
しかしその他の場面では、この巨神兵オーマは自らを”調停者”となのっていおり、上に引用したこのシーンの前段では、おそらく彼らの事を差し「(前略)…あらゆる利害調停のために神まで造ってしまった」と、この巨神兵が調停のための造られた人造の神であったことを語っている。
作中ペジテで発掘され、その時同時に出土した秘石をもつナウシカに従う巨神兵オーマは、目覚めた当初は子供のように自らの力を楽しんでふるう無邪気な残虐さをみせている。しかしナウシカが彼にオーマという名を与えると、突然理性が芽生え自らの存在を自覚する。
その後は母と呼ぶナウシカを西のシュワへと送るため、ナウシカを守る戦士として振舞うが、その行動の端々には”調停者”そして”裁定者”としての態度が現れている。
道中彼は自身から出る毒の光(放射線のようなもの)によって、体力を奪われていくナウシカを案じつつ、自身もまたその毒に侵されていく。また途中、彼らはトルメキアの王子たちと出会いドルクやその聖都シュワへの進行を止めるよう説得するが、その際にはオーマは人間同士の権力構造をある程度理解して振舞っている。
このシーンの前段で、ナウシカらはトルメキアの王子たちに戦闘を呼び止めるが、彼らはその戦争が自身の父であるトルメキアの王からの命令であり自分たちにも取り消す権限の無いものだと説明。その交渉の途中ナウシカはオーマからの毒の光で憔悴し、倒れてしまう。
結局はナウシカもこのトルメキアの王子たちもシュワへ向かう手はずであるため、王子側は一旦ナウシカを自分たちの飛行機の中で保護し、一緒に向かうことを提案。オーマはその理屈を理解し、一時的にはその言葉に従った。
だが王子たちはオーマに対しナウシカが人質としての価値を持つことを知ると、次第に彼をコントロールしようと様々な要求をしはじめる。業を煮やしたオーマはその飛行中の船の外装を引き剥がすと、中にいたナウシカと王子らを自分の手に抱え自分の一方的な要求を伝える。
「本当に離していいのか?」「いき いきます!」「トルメキア兵に告ぐ!! 合意の元に裁定がくだった」
殆ど脅しともいえる強引な裁定だが、旧時代に渦巻いた様々な利害関係というものを一元的に調停できる力持つ神、というものはこうして振舞っていたのだろう。そしてそうした横暴なふるまいによって、旧時代での抑止機構として機能していたのではないかと思う。
しかし彼のナウシカへの態度を見てみると、その裁定は決して機械的なものではなかったはずである。
彼はナウシカを常に庇い、その交渉は威圧的な面もあるが、残忍さはない。オーマというこの名もこのナウシカ世界の言葉エフタル語で”無垢”という意味を持ち、それはナウシカがこの巨神兵の中に子供のようなある種の純粋さを認めたためにそう名付けたのだろう。
おそらくこうした旧時代における戦争抑止という名目によって作られた彼らは、高度な倫理観、ある程度の他者への慈しみというものをインプットされ、作られたのではないかと思う。
そして同時に彼らはそれをどのような勢力・国へ絶対的へも押し付けられるほどの戦闘能力を持たされており、存在するだけで周囲を汚染してしまう兵器だった。
おそらくそうした相反した性質を持つ歪な存在でなければ平和のための抑止体制が築けないほど、旧時代の世界は混迷を極めていたと思われる。
しかし、ここで大きな疑問がある。
今まで考察してきた事実からは、人類は地球を捨てて新たな新天地を目指すこともでき、また巨神兵たちは決して不合理な理由からその力を振るうような存在ではなかった。
なぜ巨神兵らは「火の7日間」をおこし、世界や人類を滅ぼしてしまったのか。
人類の裏切りとペジテの巨神兵
なぜ巨神兵たちは、人類を滅ぼしたのか。何故それほどまでに激しい動機を、彼らは造物主に対して抱いたのか。
その答えは、やはりこの「風の谷のナウシカ」という物語の発端ともなったペジテという街にあるのではないか?
物語のはこの眠っていた巨神兵と、同時に出土したこの巨神兵のカギとなる秘石を巡っての陰謀が発端となっている。当時同盟であったはずのトルメキアがなぜかペジテの船を襲い、その被害者を助けようとしたことからナウシカはその秘石を受け取ってしまう。
そしてとうの巨神兵とその秘石は、このペジテという街の航空機エンジンを出土する、古代技術の鉱山の奥で発見された。
このペジテというのはナウシカの出身の風の谷と同じく、辺境諸族とよばれる腐海近辺の独立都市である。風の谷のガンシップ、工房都市ペジテのエンジン鉱山。過去にはエフタルという街もあり、そこでは旧時代の技術を長い間遺していたらしい。
そうした辺境諸族の街に特徴的なのが、まるい泥壁のようなものをごてごてとつけた高い塔である。
肝心のペジテのものは遠くからのものでわからないが、こうした都市の特徴として、このような建築物が見受けられる。
しかしこのナウシカの世界では、他にもこうしたごてごてとした丸みを帯びた塔を見ることが出来る。
それがこれらの、ドルクの大型飛行機に見られる戦艦のような司令塔である。
おそらく町のものもこの戦艦の司令塔も、どちらもこの世界で発達した小型飛行機を管制したり監視したりする役割があるのだろう。ただしなぜ腐海付近の辺境諸族の地域にばかり、こうした塔が見られるのかは不明である。
しかしここで、もう一度あのセラミック鉱山で有名なセム市の光景を見てほしい。
落ちた巨大宇宙船のこの司令塔は、まさに風の谷の城のような形をしており、そして人々はペジテのようにこの中から旧時代のテクノロジーを発掘している。もしかすると現在の辺境諸族の集落では、もともとこうした宇宙船の遺跡に中に集落をつくり、その技術を何とか使いながら生きていたのではないだろうか。
そしてそうした都市のひとつ、ペジテ市に巨神兵の製造施設があったことは、多くの可能性を想像させる。ペジテは小型飛行機ガンシップ等のエンジンを発掘し、風の谷などへ輸出する工房都市であった。
さて、まず初めに考えられる可能性は、たんにペジテが旧時代の軍事施設だったという事である。
その場合では、ある一国の軍が強力無比な巨神兵を自国のために不法に製造していたという事になる。
確かにそれは重大な当時の条約違反ではあっただろうが、しかしそのために世界を亡ぼす判断が行われたとは考えづらい。
巨神兵という兵器をたんに現在の核抑止の比喩的に考えることは、まずもって考えられる物語の解釈だろう。ただしよくあるこうした核戦争の危機に警鐘を鳴らす物語のように、ただ一発の兵器の運用が問題となり世界戦争に発展するというシナリオでは、この擬人化された兵器である巨神兵の役割が曖昧になってしまう。
もしも違法にペジテで巨神兵が製造されていることがわかったとしても、当時の巨神兵たちはそうした人間同士のいざこざを大戦へと拡大しないように動いたはずであり、そこに調停者としての彼らの役割があるはずである。
ではもう一つさらに考えられる可能性は、ペジテ市がセム市と同じように旧時代の宇宙船が眠っていた鉱山であり、その中には大量の戦闘航空機と巨神兵の製造施設が眠っていたという場合。
この場合では、人類への巨神兵の感情が大きく変わってしまったと思われる。
なぜなら巨神兵たちは、自らは地球の人類や生命を慈しむ心を本能的にインプットされ、しかし自らはそうした自然への凶悪な汚染能力を持たされた非常に矛盾した存在である。
彼らにとっても彼ら自身の存在は、あくまで地球という自然環境を少しでも長く存続させるための、やむを得ぬ必要悪といった存在であった。彼らは地球の平和のために、地球上を汚染し続けるという矛盾した運命を、本心では苦々しく思いながら受け入れていたはずである。
しかしある時その人類が、この地球を捨てて他の星で新たにやり直すことを決めた場合、彼らはどのように考えたか。おそらくこの場合でも、さらに苦々しくは思いながら、一応はそのことは認めたのではないだろうか?
人間という一つの生命を存えさせる選択は、彼らにとっても否定はしずらく、また地球の人々が減れば終末戦争へのリスクも低減する。
ただしその他の星へ飛び立つ人類が、自分たちはさらにその星で戦争を続けるつもりで、戦闘機などの兵器を宇宙船へ持ち込んでいた。しかもそうした戦争でまた自分たちが亡ばないために、巨神兵をもその星へ持ち込もうと考えていたとしたら。
もしかするとそれは巨神兵たちにとって、許しがたい人類の裏切りに感じられたのではないだろうか?
人類は巨神兵たちが苦しみながら平和を維持しようとしていたことを省みることなく、また次の移住先を地球と同じように汚染しても構わないと考えている。自分たちは何一つ変わる気がなく、発達した科学力で周囲を造り変えればいいと考えていただけであった。
こうした科学を盲信した旧人類の高慢さこそ、また本編でナウシカの断じた墓王の欺瞞であった。
旧人類は軍事力や巨神兵によって人々を制御しようとそれを捨てることが出来ず、シュワの墓王は生命を造り変えることによって清浄な世界を築こうと考えていた。しかしそこに人類の自らを省みる反省はなく、新しい星で、新しい時代でなら上手くやれるだろうという無根拠な楽観しかない。
現実にそれまでの不完全な世界を維持していたのは、不浄をばらまきながら争いを調停していた巨神兵たちであり、毒の瘴気に蝕まれながら現在の生を繋いでいたナウシカやオームたちであった。
そして、そのような不完全さを悩みつつ肯定していくことが生命の在り方であり、ただ自然に生まれた旧人類が抱いていた完全性という欺瞞を、被造物である巨神兵やナウシカが裁くという構図がこのストーリーのある種のカタルシスである。
実のところ宮崎駿は、この「風の谷のナウシカ」や「もののけ姫」で描いているように、ただ盲信的な自然主義という訳ではない。
ナウシカではこの通り科学によって変造された人類の姿を描いているし、もののけ姫においてもエボシらの自然の森を蝕むタタラ場を、決して否定的には描いていない。むしろ自然と人の両者のどうしようもない葛藤を、その物語の軸として描いている。
また「天空の城ラピュタ」では空というものが憧憬や人類の夢ではありつつも、また大地を省みなかったラピュタ人の滅んだ墓として、両義的な意味をも含む象徴だった。
最新作の「君たちはどう生きるか」では、前半義理の母への反発と新しい学校で馴染めない主人公の葛藤の場面がみられる物の、その後の熱に伏す場面とタイトルに引用される『君たちはどう生きるか』という書籍との出会いによって、主人公は決して簡単には受け入れられない自分の現在の在り方というものを受容していく。
そこから後半のファンタジー的な展開は、いささか典型的すぎる抽象的世界観で、一見して熱にうなされながら見る少年の日の悪夢のような世界である。
しかし宮崎駿は、まさにそのような悪夢的な世界観をある意味自覚してあの映画の後半に据えたのではないか?
実のところ、あの後半部は主人公が頭のケガによって見た熱病の悪夢のシーンの反復表現としての面を持ち、既にそれを自覚した主人公に先導される形で見る、自己受容の物語なのではないだろうか。
だとすればあの映画は、一人の少年の客観的な自己受容と主観的な自己受容の過程を反復的に表現し説明する構造を持ち、もしかすると原作とも呼ばれる吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』のテーマについて、視聴者に深く考えさせるための映像作品なのかもしれない。
そしてもしかすると、この三十年前の漫画版の「風の谷のナウシカ」において、監督は既に表面的に読み取れるナウシカの冒険と、そしてその舞台を作り上げたバックボーンにおける「火の7日間」の謎による物語の反復構造よって、そのテーマを多角的に掘り下げようと試みていたのではないだろうか。
2023/07/28