勝手に映画評3 なぜ今時代劇なのか? 平和が危うくなりつつある日本社会に塚本監督が向けた痛烈な刃ー『斬、』
さて、第3回目の勝手に映画評は、塚本晋也監督『斬、』です。
『野火』に続き、登場人物は少なく、今回もストーリーは至ってシンプル。
塚本晋也演じる澤村次郎左衛門は「東京に一大事がある」と言って、池松宗亮演じる浪人都築杢之進をスカウト。 それを引き留めようとする杢之進に想いを寄せる蒼井優演じるゆう。
杢之進は最初は戸惑いながらも、愛する者を殺されたことに激昂し、斬る。
そして、ゆうを守るために、最後は自らを守るために斬ります。
「なぜ、人は人を斬るのか」
が、この映画のキャッチコピーになっていますが、その答えとなる「大義」はこの映画にはありません。
全ての戦いには大義がある。
お国のため、英霊のため、云々。
そんなものは人が命を犠牲にする程の大義ではない、ということは歴史が実証しているにもかかわらず、人類は同じことを繰り返してしまう。
忠臣を捧げること、そして斬ることが自己目的化した澤村と、斬ることに対して戸惑いを感じる杢之進。
そして、杢之進に東京へ行って欲しくない、人殺しをして欲しくない、と願うゆうや杢之進の家族。
そんな3つ巴の人間関係の中で斬って斬られて、登場人物たちは徐々に少なくなって行きます。
戦いの状態に置かれると、大義なく人を殺してしまう、残酷なことができてしまう。
そのことを描こうとする姿勢は『野火』と何ら変わりないように感じます。
また、身体性をもって観客に訴えかける姿勢はデビュー作『鉄男』の頃から変わっていません。
終盤、斬り合いを省略して血みどろのシーンが増える展開に関して「本当に恐ろしいことは、身の回りにくるまではイメージがつかめないということを表したかった。今の時代は戦争の痛みを知る人が少なくなっている。イメージがつかめないから戦争へと近づいていく危機感のようなものを表現しなければならないと思った」
と語った塚本監督。
塚本監督の刃を私たちはどう受け止めるのかー
ラストのゆうの表情が脳裏に焼き付いて離れません。
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