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稲盛和夫氏語録集『運命をひらく生き方ノート』著者――大田嘉仁さんインタビュー

週刊エコノミスト 2025年2月4日号

元京セラ常務、元日本航空会長補佐 大田嘉仁

おおた・よしひと 1954年鹿児島市生まれ。立命館大学経済学部卒。78年京セラ入社。90年米ジョージ・ワシントン大でMBA(経営学修士)取得。91年から京セラ創業者・稲盛和夫氏の特命秘書を務め、秘書室長、取締役執行役員常務などを歴任。2010年、経営破綻した日本航空(JAL)の専務執行役員に就任し、会長となった稲盛氏を補佐した。京セラコミュニケーションシステム代表取締役会長。MTG取締役会長などを経て、現在は日本産業推進機構特別顧問、鴻池運輸社外取締役、新日本科学顧問などを務める。(※小林製薬は1月21日、大田嘉仁さんが3月開催予定の定時株主総会での承認を経て、取締役会長に就く人事を発表しました)

 京セラ創業者、稲盛和夫さんの側近として、その教えや言葉を書き留めたノートは約60冊。「経営の神様」に間近で接し続けてきたからこそ、今の時代に伝えられることがある。(聞き手=井上志津・ライター)

「書き留め続けた稲盛和夫さんの言葉を世に」

── 2022年8月に90歳で亡くなった京セラ創業者、稲盛和夫さんが常日ごろから語っていた言葉や教えをまとめた『運命をひらく生き方ノート』(致知出版社)を昨年9月に上梓(じょうし)しました。

大田 私が1991年に37歳で稲盛さんの特命秘書に任命されて以来、稲盛さんとの会話や教えを書き留めていたノートが60冊ほどあることを、たまたま致知出版社の社長に話したところ、執筆を勧められ、まとめました。稲盛さんと長い時間を共有した私には、学んだことを発信する役割があると思いました。自分の字とはいえ、走り書きのノートを読み返すのは大変でしたが、貴重な言葉を世に伝えられることができたと思っています。

── 本書で書かれた中で一番好きな稲盛さんの言葉を挙げるとすればどれですか。

大田 「神様は平等だ」です。この宇宙を作った万能の神はすべてを見ているのだから、誰かをえこひいきするはずはない。だから、人知れず苦労を重ねていたとしても、必ず報われるようになっていると信じて、明るい未来を描くことが大事だという意味です。そう信じられるかどうかが大切で、上手な表現だと思いますね。

 大田さんは1978年、新卒で京セラ(当時の社名は京都セラミック)に入社。海外営業に10年間従事した後、米ジョージ・ワシントン大学ビジネススクールに社費留学し、グローバルマーケティングを学んで首席で卒業した。90年に帰国して経営企画室にいた大田さんは、翌年、稲盛さんが政府の第3次行政改革審議会の「世界の中の日本」部会長に抜擢されると、突然、稲盛さんから特命秘書に指名された。稲盛さんは59歳、大田さんは37歳だった。

―― 稲盛さんはなぜ大田さんを特命秘書に選んだのでしょう。

大田 さっぱり分かりません。自分としては、ビジネススクールをトップで出たことではないかと思っていますが……。当時、行革の委員の秘書は50代、60代でしたので、周囲から若すぎると言われましたが、稲盛さんは「大田君がいい」と言ったようです。それから毎週、京都から東京に同行し、とても緊張しました。でもある日、稲盛さんが言ったんです。「2人で日本を変えよう」と。

 稲盛さんにはもっと世の中を良くしたいというエネルギーがありました。そのエネルギーがすごいと思いましたね。「そのためには俺たちは一心同体でなければいけない。お前には俺の代わりにいろんな人に会ってもらうつもりだが、お前が傲慢だったら上司である俺も傲慢だと、いい加減だったら俺もいい加減と思われる」とも言われました。

「人の心を大事にしてきた」

―― 大田さんが初めて稲盛さんと会った時の印象は?

大田 最初は入社面接で成績のことなどを聞かれただけですが、私が印象深く感じたのは入社式での言葉です。「京セラが成長したのは技術力があったからではなく、人の心を大事にしてきたからだ」と。当時、稲盛さんは技術者出身の経営者として評価され、私もそう思っていたので驚きました。

 入社して半年ぐらいたったころ、稲盛さんを囲むコンパがあり、「何でも思っていることを言いなさい」と言われたので、「もっと福利厚生を良くすべきだ」と言いました。2段ベッドが二つ置かれた4人部屋の寮で生活していましたのでね、「まともな生活が送れません」と。その時の稲盛さんは「何も分からないくせに」と私の話を打ち切っていましたが、生意気なやつがいるということは頭に残っていたかもしれませんね。

―― 稲盛さんのそばにいるうえで気をつけたことは何でしょう。

大田 自分に正直であろうということです。稲盛さんの前で見えを張っても意味はないので、分からないことは分からない、知らないことは知らないと率直に言いました。これは最初から最後まで同じで、稲盛さんもそれを許してくれました。

 倫理観や社会的規範を重視する独自の経営哲学を生み出し、京セラや第二電電(現KDDI)を創業して国内有数の企業に育て上げた稲盛和夫さん。「経営の神様」と呼ばれたその手腕がいかんなく発揮されたのが、日本航空(JAL)の再建だった。10年1月に2兆3000億円もの負債を抱えて経営破綻したJALに、稲盛さんは政府からの要請を受けて会長に就任した。

 78歳と高齢なうえに稲盛さんが航空業界に素人だったことから再建は不可能といわれ、JALは10年2月に上場廃止したが、1年後に過去最高の1800億円、2年後には2000億円を超える営業利益を上げ、業績はV字回復を遂げた。「お前を連れていく。一緒に再建しよう」と言われた大田さんは、JALの管財人代理や会長補佐、のちに専務執行役員として意識改革や経営理念の作成、再上場(12年9月)や次期機体の選定などを担当した。

「リーダーとしての姿」を説く

―― 再建に着手した当初のJALの雰囲気はどうでしたか。

大田 社員が私たちに向ける視線は冷ややかでした。稲盛さんは会長就任翌日、羽田空港のJALの各職場に行き、2時間ぐらいかけて1人1人に「稲盛です。私も頑張りますので、皆さんも頑張ってください」と声をかけ、現場の人たちはとても感激したようでした。一方、稲盛さんは忙しくてJALに毎日顔を出せていたわけではありません。四面楚歌(そか)だった私は途方に暮れましたが、まずは社長を含む経営幹部53人に対して1カ月週4回のリーダー勉強会を実施しました。

―― 幹部たちはすぐ受け入れましたか。

大田 勉強会の内容はマネジメントの方法などではなく、「感謝の気持ちを忘れない」「常に謙虚で素直な心を持つ」といった「リーダーとしてのあるべき姿」を説くものだったので、反発する人もいましたが、ひと月で理解を示してくれるようになりました。本当に人はこんなに変わるのかと思うぐらい変わりましたね。
 
 人も設備もソフトウエアも、倒産時と変わらず、変わったのは社員の意識だけなんです。要するに、それまではみんな不平不満ばかり言って足を引っ張り合っていたのが、前向きになって助け合うようになったんですね。人の心は変えられるということを学びました。

―― 経営理念を具体的に示す「JALフィロソフィ」も11年1月に策定されました。

大田 さまざまな部署の幹部に集まってもらい、作成しました。稲盛さんは経営理念を「働く人の意識を統合するもの」と定義づけていました。「経営者も社員も同じ目的、目標を目指すのが理想であり、そうすれば思いも通じる」と言うのです。その目的とは「全従業員の物心両面の幸福を追求すると同時に、人類、社会の進歩発展に貢献する」というもの。これは京セラもKDDIも同様で、正しい経営の根幹をなすものですから、JALでもこれを軸に作り上げたのが40項目からなる「JALフィロソフィ」でした。

―― JAL再建が成功した一番の要因は何だったと考えますか。

大田 「3年で再建させる」と稲盛さんが言い切ったことです。これを「5年」とか、「いつか」と言っていたらうまくいかなかったでしょう。期限が決まっていたので強引に意識改革を進めましたが、その結果、「全員参加経営」ができるようになりました。

 加えて、リーダーが意識を変えられるか。「みんなが嫌がることを実行できますか」「役員たちに気に入られたいと思っていませんか」ということです。JALはリーダーが意識を変えられたので再建できました。

「2人で日本を変えよう」「そのために俺たちは一心同体でなければいけない」。特命秘書時代の稲盛さんからの言葉です。

みんなの前でくれたネクタイ

―― 大田さんは再建後の13年1月、JAL専務執行役員を退任しました。12年たった今、JALをどう見ていますか。

大田 新型コロナウイルス禍も乗り越え、順調に来ているとは思いますが、少し流行を追っている気もするので、本業は何かを改めて考えた方がいいのではないかと思っています。航空事業以外の新規事業をしませんかとコンサルタント会社などから声がかかるかもしれませんが、現場で働く人をもっと大切にして、地に足のついた経営を続けてほしいですね。

―― 稲盛さんは晩年はどう過ごしていたのでしょう。

大田 コロナ禍もあり、お会いすることはなかったのですが、ご家族に囲まれて幸せな晩年を過ごされたと思います。以前、ご家族から「父をそろそろ返してほしい」と言われたことがありました。仕事一筋で、結果的にご家族より私の方が一緒にいた時間が長かったですから……。

―― 稲盛さんはどんな人でしたか。

大田 本当に優しい人でした。JALが再上場した後、日本外国特派員協会で稲盛さんが講演をしたんです。晴れ舞台だったと思います。講演後、主催者が「記念品に協会特製のネクタイを差し上げますから1本選んでください」と言ったんですね。稲盛さんが赤いネクタイを選んだので、派手だなと袖で思っていたら、「大田君、ありがとう。君のおかげだ」と言って、みんなの前で私にくれたんです。今日もそのネクタイをしてきましたが、うれしかったですね。

―― 今年71歳。今後したいことは。

大田 稲盛さんは「経営の神様」だから成功したと言われることがありますが、そんな抽象的な存在として語られるのは誤解を生む可能性もあります。ですから、稲盛さんから学んだ具体的な言葉などをこれからも多くの方に伝えていきたいです。


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