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「Nの廻廊 ある友をめぐるきれぎれの回想」保阪正康さんインタビュー
【BOOK】「僕の人生の中で『西部邁』という貴重なカレンダーになった」保阪正康さん『Nの廻廊 ある友をめぐるきれぎれの回想』
2023/7/29 10:00
zakzak by 夕刊フジ
ノンフィクション作家、保阪正康さんは2018年、78歳で自殺した評論家、西部邁さんの中学時代からの友人だった。『Nの廻廊』は西部さんとの思い出をつづった60年間にわたる歳月の哀悼記だ。
――大人の西部さんを「N」、子どもの頃の西部さんを「すすむさん」と書いています
「西部さんは一般的に『過激な右派』のようなイメージがありましたが、僕の西部像は違います。とはいえ、それはあくまでも僕の西部像なので、大人の彼は『N』と抽象化しました」
――この本を書こうと思った理由は
「中学生の頃、僕たちは北海道で越境通学していて、毎朝、僕は白石から、彼は厚別から同じ汽車に乗り、デッキや待合室でいろんな話をしました。一学年上のすすむさんとの時間は、自分が成長していく原点みたいなものでした。彼の死後、その記憶は僕だけのものでいいと思っていましたが、記事などを見ると、彼の人間的な部分が知られていないので、僕が書こうと思いました」
――西部さんはどんな人でしたか
「彼は東京大学在学中に『60年安保闘争』を先導した後、東大の教授になりました。でも、のちに何度もこう言っていました。『我々は流民の子なんだよ。東京のお坊ちゃんとはわけが違うんだ』。日本の中枢エリートや都市ブルジョワジーに対する反発心と憧憬を持っていたと思います。同郷や血族といった土着の関係を信頼する人でもありました」
――40代のとき32年ぶりに再会しました
「彼が高校進学してからは交流が途絶えていましたが、編集者が引き合わせてくれました。初めのうちは堅苦しかったですが、『厚別と白石の再会だ』と彼が言った途端、時間が一気に戻りました」
――保阪さんはその日、西部さんと今後付き合うための不文律を決めたとか
「一番大きいのは学生運動の話には触れないということでした。酒場などで学生運動の指導者責任について問われ、体を震わせて怒っている彼を見たことがありますが、社会や他人は本当に無責任だなと思ったものです。彼は苦しんで苦しんで総括していたのに、話のついでのように軽々に聞く人が多くいました」
――保阪さんからは電話をしないということも決めたそうですね
「彼は人と親しくなると、誰であれ必ず関係を切ったんです。再会してから3回ぐらい友人が入れ替わりました。彼の心の中に、ある点から入り込めない場所があるんですね。結局、最後の10年ほどは彼を『先生、先生』と奉る人たちばかりになってしまった。僕はその変化を黙って見ていました。僕は一定の距離を保つということを心していたから、関係を維持できたのでしょう。『保阪、たまには電話くれよ』とよく言われました」
――西部さんは、晩年は一緒に田園生活をしようと保阪さんに言っていたのですね
「『真ん中に東屋を作って、四角に住んで、食事の後には東屋でのんびり会話するんだ。保阪、その一角に住め』って。妻に言ったら、『それだけはいやだ』と言っていましたけどね(笑)」
――西部さんがこの本を読んだら何と言ったと思いますか
「『保阪、お前、変なこと書くなよ』と言った後に『しかし、俺のことよく見てると思うよ』と言ったでしょう。『俺のデリケートな所もわかってもらえたかな』と思うんじゃないでしょうか」
――この本は保阪さんの青春録にもなっています
「僕の人生の中では、西部邁という人がカレンダーになっているんです。初めて会話を交わした日。30年後に再会した日。妻と知り合って結婚したのも一つのカレンダーですが、自分の中のそうした暦は、何人分もあるわけではありません。西部さんのカレンダーは、他にはない貴重なカレンダーだったと思います」
――いま思い出す西部さんの表情は
「列車のデッキで、汽笛が鳴ったり、風が吹いたりすると、彼は目を細めるんですよ。そして、吃音ぎみに話す。言葉を早く出したいけれど、肉体がついていかない。彼がどもっているとき、僕は黙って待っていました。だから、一番思い出すのは列車のデッキで口をとがらせ、目を細めていろんな話をしていた少年の彼の顔です」
(取材・井上志津)
■『Nの廻廊 ある友をめぐるきれぎれの回想』 講談社・2090円税込
昭和27(1952)年春、札幌の中学に通うために同じ汽車に乗った2人の少年は、30年余を経たのちに再会する。ひとりは気鋭のノンフィクション作家になり、ひとりは学生運動の闘士から経済学者、さらには保守的思想家へと転じていた。それからまた30年、突然の別れがやってくる…。2018年に78歳で入水自殺した西部邁さんとの思い出を、筆者が子どもの頃の西部さんは「すすむさん」、大人の彼は「N」としてつづった60年の歳月の回想録。
■保阪正康(ほさか・まさやす) 現代史研究家、ノンフィクション作家。1939年北海道生まれ。同志社大学文学部卒。72年『死なう団事件』で作家デビュー。2004年個人誌『昭和史講座』の刊行など一貫した昭和史研究の仕事により菊池寛賞を受賞。17年『ナショナリズムの昭和』で和辻哲郎文化賞受賞。近現代史の実証的研究を続け、これまで延べ4000人から証言を得ている。『陸軍省軍務局と日米開戦』『あの戦争は何だったのか』『昭和史の大河を往く』シリーズなど著書多数。
https://www.zakzak.co.jp/article/20230729-A4BKXRMW2NK5BK6ERP4WSDJZ24/?outputType=amp
(「Nの廻廊 ある友をめぐるきれぎれの回想」を出版した保阪正康さんのインタビュー記事が掲載されました。保阪さんと中学時代から友人だった西部邁さんの回想録です。私は西部さんとちゃんとお話をしたことはなかったのですが、20年ぐらい前だったか、新宿のburaでよくお見かけしました。「本の中のN(西部さん)と、私がburaの片隅から見ていた西部さんの姿は同じでした」と保阪さんに言ったら、書いた甲斐があったと喜んでくださいました。もう亡くなって5年も経つのだなあ。北海道の汽車に揺られて通学する、学生帽をかぶった保阪さんと西部さんの姿が浮かんで、胸が締め付けられるような本です。)